ドキュメンタリー映画『作兵衛さんと日本を掘る』を観る

 いま、東京の「ポレポレ東中野」で、ドキュメンタリー映画『作兵衛さんと日本を掘る』が公開されている。

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 この映画の紹介を、先日、新聞記事で読んだ。
 このドキュメンタリー映画は「日本初のユネスコ世界記憶遺産になった山本作兵衛の記録画と日記を通し、日本の近現代史を描き出すドキュメンタリー。国策として進められた石炭産業の栄枯盛衰を労働者の視点からつづり、絵や日記などのかたちで残した山本作兵衛。福岡県の筑豊炭田で幼い頃から炭鉱夫として働いてきた作兵衛は、自らが体験した労働や生活を後世に伝えようと、60歳半ばを過ぎてから絵筆をとった。」と紹介されていた。
 山本作兵衛さんについても知らなかったし、そして、ユネスコ世界遺産の中に「世界記憶遺産」というのがあることも僕は知らなかった。
 その世界記憶遺産に「山本作兵衛さんが描いた記録画」が、日本で初めて登録されたことも知らなかった。
 日本の近代産業の発展に貢献した日本最大の筑豊炭田。そこで働いていた炭鉱労働者が、その実態を次代に残したいと描いた絵や日記。ぜひ、観ておこうとポレポレ東中野に出かけた。

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 地下の映写室に下りる階段の壁には、山本作兵衛さんの写真や絵のレプリカが飾ってあった。

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 映画は、作兵衛さんの画と文章と共に、作兵衛さんを知る人々の言葉を通して、近代日本の石炭産業を担った労働者家族の姿を映し出していた。
 命がけの坑内労働。
 高さは60~45センチの狭く暑苦し坑内で、カンテラの小さな灯りをたよりに這いつくばりツルハシで鉱脈を削る姿。
 その掘り出した石炭を竹籠で担ぎ炭車のハコに入れて運ぶ女性。
 カンテラを手に、幼い妹を背負いながら母親と坑内に入る少年。
 命がけの上半身裸での夫婦での過酷な労働、そこで働く女坑夫の「一日の仕事を終えて、坑道の先に出口の光が見えるときがいちばん嬉しかった。子どもに会える・・・」という言葉、などなど。
 このような人たちの日々の過酷な労働に、日本の近代産業の目覚ましい発展が支えられていたことに胸が痛むドキュメンタリー映画だった。

 上映が終わった後に、監督の熊谷博子さんが、この映画を製作した想いを語り「多くの人に観て欲しい。」と訴えていた。

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 映画を観終わった後、背景を詳しく知りたいと思ってネットで調べてみた。
 「山本作兵衛明治25年~昭和59年)は、福岡県出身の炭鉱労働者。尋常小学校卒業後、明治39年に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となり、以後、採炭員や鍛冶工員として筑豊地域の中小の炭鉱を転々として働いた。63歳で炭鉱の警備員として働き始めたころ、当時の生活を伝えようと炭鉱の絵を描き始めるようになり、92歳で亡くなるまで描いた絵は2千枚近いと言われる。」とあった。
 また、「世界記憶遺産とは、ユネスコが主催する世界遺産事業の一つで、後世に伝えるべき歴史的文書などの保存を奨励し、デジタル化などを通じて世界の人々のアクセスが可能となることによって、世界的観点から歴史的文書の重要性を認識することを目指している。日本からは長く推薦がなかったために知名度が低いが、中国、韓国をはじめ文書記録に長い伝統を持つ世界の各地から登録が続いている。2011年,福岡県田川市福岡県立大学が共同でユネスコに提出した山本作兵衛が書き残した筑豊の炭鉱画697点が日本国内では初めて記憶遺産として登録された。その後、2013年には《慶長遣欧使節関係資料》《御堂関白記》、2015年には《舞鶴への生還 1945?1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録》《東寺百合文書》が記憶遺産に登録された。」