高田 郁 著 『あい 永遠に在り』 紹介

 久々に、ずっしりと読み応えのある小説に出会った感じだ。
 幕末から明治への激動時代に、関寛斎という医師は、老齢になって北海道開拓を人生の最終章にした人物というのは知っていた。
 蘭方医師が、なぜ、理想的農牧村落の建設を目指して、北海道開拓の道へと踏み出したのか」興味ある人物として記憶にあった。
 そんなことで、その関寛斎の妻を主人公にして書いた高田郁の新刊文庫『あい 永遠に在り』を見つけたときには、迷うことなく買い求めて、その日の帰宅通勤電車から読みだした。
           

歴史小説好きの人にはお薦めの小説
 特に、明治維新前後の激動の時代に生きた実在の人物、その人たちがどんな信念で国づくりをしたか、あるいは北海道開拓史、そんなことに興味のある人、そして、夫婦の愛とは何かを考えたい人には、一押しの物語だ。
 詳しい内容は、これから読む人に対して、お節介になり失礼なので控えるが、「BOOK」データベースには、このように紹介されている。
── 齢73歳にして、北海道開拓を志した医師・関寛斎藩医師、戊辰戦争における野戦病院での功績など、これまでの地位や名誉を捨ててまでも彼は、北の大地を目指した。そんな夫を傍らで支え続けた妻・あい。幕末から明治へと激動の時代を生き、波乱の生涯を送ったふたりの育んだ愛のかたちとは―。妻・あいの視点から描く、歴史上に実在した知られざる傑物の姿とは―。愛することの意味を問う感動の物語。 ──


◇蛇足になるが、維新という激動時代の人物として、僕が興味ある関寛斎について、改めて調べたので、もう少し詳しく記しておく。

 関寛斎は、上総国(現在の千葉県東金市)の農家の子として生まれ、佐倉順天堂で蘭医学を学び、銚子で開業するが、醤油醸造の豪商(現在のヤマサ醤油)・濱口梧陵の支援で長崎に遊学し最新の医学を学ぶ。
 その後、徳島藩の典医となり、さらに戊辰戦争では官軍の野戦病院頭取として腕を振るい、敵味方の別なく治療に当たり、赤十字精神の先駆とされ、その業績は西郷隆盛からも高く評価されたが、医術で立身出世・蓄財を良しとしない信念を貫き、維新後は徳島に帰り一町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力し慕われる。
 そして、寛斎72歳にして北海道開拓へ人生の舵を切り、原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、関牧場を拓く。
 陸別駅前広場にある関寛斎銅像
           

◇北海道陸別町のHPの「歴史」にはこのように記されている。(抜粋)

 明治35年、72歳の関寛斎は斗満(トマム)原野の開拓を志す。
 寛斎は、4男・又一が札幌農学校卒業と同時に、陸別開拓の基本方針を固め、又一を斗満に入植させていた。この1902年(明治35年)こそ、陸別開拓の第一歩として記念すべき年である。
 寛斎夫婦は、この年、結婚50年の金婚式を四国徳島で挙げ、老躯をもって、北海道十勝国斗満原野開拓を志し、徳島を旅立ったのである。
 寛斎は牛7頭・馬52頭をもって、1ヘクタールの開墾を行った。その地を関農場とし、片山八重蔵を管理人として迎えたのだが、息子・又一が騎馬隊入営のため、関親子は再び離ればなれとなってしまった。
 斗満原野の開拓は進まなかった。農産物のそば・馬鈴薯・大根などの収穫は霜害のためほとんど無く、徳島時代に備えていたいくばくかの資本も使い果たしていた。
 このような言語を絶する苦難の年がどれほど続いたのだろう。兎やねずみ・熊の被害、酷寒・風雪と戦いながら、陸別の開拓は始められたのである。
 大正元年10月15日、寛斎は自らの夢を又一に託して、斗満の地に果てた。