先日、新聞記事で、東京立川にある国立極地研究所の「南極・北極科学館」で、明治43年(1910年)日本初の南極探検に、白瀬矗(しらせのぶ)中尉に同行していった2人の樺太アイヌ人についての展示が、現在開催中というのを知って行ってみた。
立川駅北口から平和記念公園脇を通って、自治大学を過ぎた所に国立極地研究所があった。
入り口を入ると、床に南極大陸の地図が貼られている。
昭和基地は何処だろうと探すが、なかなか見つからず係の女性に聞いて、左上に見つけた。
僕が、明治末期の日本初の南極探検に樺太アイヌの若者が2人参加していたというのを知ったのは、2020年に直木賞を受賞した作品・川越宗一の『 熱源 』の主人公の1人が樺太(サハリン)生まれのアイヌの青年だったからだ。
明治43年の南極探検白瀬隊、なんと木造船で行ったことに驚く。
白瀬隊の隊旗やカラフト犬が引いた犬ぞりが展示。
この2人がカラフト犬を連れて隊員として南極に行った。
一人は「山辺安之助(やまのべやすのすけ)」
小説『熱源』には──「アイヌを救うものは、決してなまやさしい慈善などではない。宗教でもない。善政でもない。ただ教育だ」と、樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。──と書かれている。
◇山辺安之助の説明要約
慶応3年、 樺太 (現サハリン州) 弥満別で生まれ、 明治8年、樺太・千島交換条約により、北海道対雁 (現江別市)に移住。
明治26年、樺太に帰り、角丁という佐々木漁場で働く。日露戦争のときには日本軍が樺太に上陸した際に、日本軍の案内などを行い、その功績により勲八等瑞宝章と一時金70円を賜り、その全額を村に寄付。
明治43年9月、白瀬南極探検の話を聞き、カラフト犬の橇犬係として参加。日露戦争を生き抜き、子どもたちのために学校を建設した山辺は、もう一度日本のために働くのであれば本望と述べ、探検隊に加わることを決意。また、アイヌを見直してもらいたい、という一心からの真摯な人柄は信頼も厚く、隊員から愛された。金田一博士は、山辺のことを「真摯熱烈の人」と呼び、山辺は探検後に、博士と『あいぬ物語』を編纂する。
もう一人は「花守信吉(はなもりしんきち)」
◇花守信吉の説明要約
明治7年、樺太 (現サハリン州) 多来加総代の末裔として 生まれる。カラフト犬10頭を引き連れて探検隊に参加。
天性無邪気で、愛嬌があり探検隊の人気者。白瀬の著書 「南極探検」 では、山辺安之助と共に「性質温厚にして従順素朴に 至っては、密かに学ぶところがあった」といる記されている。山辺と共に橇犬の御者、犬の世話や隊員の食事を作る役割を担う。
このようなアイヌの青年が、明治の「日本初の南極探検」に貢献していたと言うことに、小説『熱源』を読んで感動したのである。
白瀬隊長の遺品も展示してあり、その中に山辺の著書『あいぬ物語』も展示してあった。
館内には、南極で使われた雪上車や、南極で発見された月や火星からの隕石、ペンギンやアザラシの剥製などが展示してあったり、基地の風景や隊員達の生活の様子がビデオで流れていた。
そして、もう一つ興味を持って観たのがこれだ。
先日、テレビでこのドリルを作った、日本の中小企業の優れた匠の高い技術レベルの集積が貢献していると放送されていたのを観た。