8月3日・月曜日のおしゃべり

 本格的な夏の到来。朝から夏の陽差し。気温も真夏日と言われる30℃を超えた。
 今日は、ラッシュ時間帯を避けて、高田馬場の事務所に行って、会の機関紙「けんさん」8月号の編集。

 

◇村岡さんが季刊誌『 フラタニティ 』を届けてくれた
 『 ユートピアの模索─ヤマギシ会の到達点 』や『 農業が創る未来─ヤマギシズム農法から 』などの著者である村岡到さんが編集長で刊行している季刊誌『 フラタニティ 』の8月1日発行No.19号を、案内所まで村岡さん自らが持参して届けてくれた。
 今号には、僕の書いた中路啓太著『 GHQ ゴー・ホーム・クイックリー 』の読後感想文を載せてもらった。

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 刊行されたばかりの『 フラタニティ 』と一緒に、奥さまから、接触冷感マスクとティーバッグをいただいた。

 

◇北海道に行っているヤマギさんからラインメール
 北海道のヤマギシの村・別海実顕地に交流で行っている三重県のヤナギさんから、ラインでメールが届いた。
 その中に、こんな野付半島の写真が届いた。

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 この、最後の写真は「何だ?」と思って「何の幟ですか?」と返信したら、「福島の会津藩が別海の海岸を200人くらいで守っていたとあります。会津藩の藩旗です。」と、この写真と一緒に返ってきた。

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 僕は知らなかった。

 我がふるさと福島の会津藩が幕府の政策で、別海を守っていたとは・・・。
 大いに興味を持って調べてみたら
── 会津藩は西別から紋別までの領地を与えられ、1860(万延元)年、標津に藩士を派遣。1868(慶応4)年まで開拓と北方警備にあたりました。
 会津藩は1862(文久2)年、ホニコイに本営となる陣屋を建築。函館で材木を製材し、切組をつくって、船で運んび組み立てるというもの。
蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記 』によれば、11隻の船で物資や人員を運び(予定では17棟建設)、1863(文久3)年の秋までになんとか陣屋が整ったことがわかります。そのホニコイ陣屋には代官以下200余名の藩士が北方警備に就いています。
 ロシアの南下政策に対抗し、寒さに強いという理由で北方警備を命じられた会津藩などの東北諸藩ですが、越冬など過酷の警備で多くの藩士が命を落としています。──

 

◇読みたいと思っていた小説が文庫化
 前々から読みたいと思っていた帚木蓬生さんが書いた小説『 襲来 』が文庫化されて書店に並んだ。

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 帯には『「蒙古襲来」を予言した男がいた。』と書かれている。その男とは、日蓮のことだ。「立正安国論」を唱えた日蓮は「幕府が法華経を用いなければ、国内の災難が続き他国からの侵略を受ける」と預言したらしい。
 早速、読み始める。

 

◇今朝の朝日新聞「折々のことば」
 哲学者・鷲田清一さんが紹介している言葉は、これだ。

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 確かに僕たちは、よく「いろいろな人がいるよね~」と言う。
 その時の「いろいろな人」には、自分が入っていない。矢印の先は、他の人だ。