柳美里著『 JR上野駅公園口 』を再度読む

 村岡到さんが編集長をしている季刊誌『 フラタニティに、1ページの掲載スペースをいただいて「文学の眼」という読後感想を連載している。
 5月1日発行の次号で15回目となるのだが、原稿締め切りが今月末と迫って、今月始めに読んだ柳美里さんの『 JR上野駅公園口 』を再度読み直した。
 読み直すと、またあらたな感想が湧いてくるし、著者の投げかける社会的テーマが明確になり、普段は小説の再読をあまりしない僕なのだが、一つの作品を読み込む大切さも、読書には必要だなと改めて感じた次第。

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  著者は、「居場所を失くした者たちの魂の叫び」を、この作品で読者に投げかけている。 主人公は、福島県相馬郡(現在の南相馬市)で、青年期から出稼ぎに明け暮れ、昭和三八年の年東京オリンピック前年からは東京で出稼ぎ労働者として働き続けて六〇歳で故郷に帰省。しかし、その七年後には再び上京してホームレスとなり、「不意に雨が落ち、コヤの天井のビニールシートを濡らす。雨が、雨の重みで落ちる。生の重みのように、時の重みのように、規則正しく、落ちる。雨が降る夜は、雨音から耳を逸らすことができず、眠ることができなかった。」と、上野公園(正式名称は上野恩賜公園)のひと隅で、ひっそりと社会に遠慮しながら、生を維持している七〇歳を過ぎだ男性なのである。
 この主人公を通して、高度成長時代を社会の底辺で支え続けた出稼ぎ労働者、故郷の地域共同体からも切り離された者の生を維持するだけの生き様、戦後、象徴天皇となっても、皇室の行幸啓のたびに住んでいる小屋を撤去されても、無意識のうちに御料車に手を振ってしまうほど日本人の天皇家への敬いと思いの呪縛などを、上野公園を舞台に、公園を訪れる市井の人たちの会話を織り交ぜながら、市井の人たちという分類にも入らない人たちの世界を浮き彫りにして、幸せを願って生きていたはずの社会の中にありながら「居場所を失った人たちの存在」という重いテーマを読者に問いかける。

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 少し物語の内容に触れてみよう。
 主人公は平成天皇と同じ昭和八年に生まれ、青年期から出稼ぎで家族の生活を支え、昭和三九年からはオリンピック建設需要に沸き立つ東京で、その後の高度成長期も出稼ぎ労働者として、故郷に帰るのは盆暮の二回だけといった生活をしながら働き続けて家族に仕送りする。
 結婚以来三七年間、妻と暮らしたのは全部合わせても一年たらずの出稼ぎ生活を六〇歳でやめて故郷に帰り、コツコツと妻が貯めた金と国民年金で安心して生活出来ると始めた七年後、近所の法事で酔って帰って寝込んでしまった翌朝、隣で妻は突然亡くなる。
 孫娘が心配して一緒に住んでくれるが、そんな生活から逃れるように出稼ぎで暮らした東京に戻り、上野公園のホームレスの一人となる。
 「昔は、家族が在った。家も在った。初めから段ボールやブルーシートの掘っ立て小屋で暮らしていた者なんていないし、成りたくてホームレスに成った者なんていない。こう成るにはこう成るだけの事情がある。」と、様々な事情を抱えてその日を生きる仲間たちと、それなりのコミュニティーを維持している。「ただの一度だって他人に後ろ指を差されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけには慣れることができなかった。」と、若くして死んだ息子のこと、その時の葬式の様子、そして、隣りに寝ていて妻の死を気づけなかった不甲斐ない自分などを、繰り返し繰り返し咀嚼の如く思いにふける毎日。
 そんな生活の彼らに、博物館や美術館などに天皇や皇后、皇太子が行幸啓するたびに、公園管理事務所の「特別掃除」や「山狩り」があって、その度に小屋の撤去や一時避難を強いられる。がしかし、主人公も含めた彼らは御料車に出会えば、自然と市井の人たち同様に手を振ってしまう。
 最後は、東日本大震災津波に吞み込まれた孫娘を思いながら、居場所も行き場をも見失った主人公は人生の重さを含んだ闇の中で聞こえるような「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください。」というアナウンスが耳に響くところで終わる。
 著者の重いテーマの問いかけが、いつまでも心に残る作品である。