原田津さんの葬儀に行く

 ヤマギシの理解者で、農文協の民間農法シリーズ『人間と自然が一体のヤマギシズム農法』の編集者の原田津(ハラダ シン)さんが、14日に亡くなられた。
 享年80歳。
 その葬儀が、今日の午後、京王線幡ヶ谷駅近くの斎場であったので、豊里実顕地のオキナガさんと参列した。
                
 原田津さんらしく、質素に、無宗教で、親族と親しい関係者だけで、納棺された故人へお花を添えてのお見送りだった。
 原田さんとは、東京案内所で仕事をするようになってから、時々お会いして、お話しを伺ったり、教えを請うたり、助言をいただいたりしていたが、ここ2〜3年は体調を崩されて、歩くことが困難になってしまったこともあり、直接お会いしてのお付き合いは年に1度程度になっていた。
 昨年12月初めに電話でお話ししたときは元気で、年が開けたらオキナガさんと一緒にお会いすることを約束していたので、いつお会いしようかと気になっていたところだった。


◇原田さんは、『ヤマギシズム農法』の中で、ヤマギシの村を次のように書いている。
          
─ この村を訪れたほとんどの人は、村全体の静かな落ち着いたたたずまいに驚く。動物たちの鳴き声はほとんど聞かれず、畜産特有の臭気も少ないからだ(略)。産まれたばかりの子豚がいる母豚でも大勢の参観者の前で悠々と授乳をつづける。金網ごしとはいえ、鶏も見知らぬ人が近づいても逃げることがなく、彼らの営みをくり広げている。牛乳などは、ストレスが多いと乳質に変化をきたすが、ヤマギシの牛乳は甘くてまろやかだと評判が高い。─
 この本は、今でも農文協の民間農法シリーズの中で売れ続けているという。
 
◇原田さんは農事評論家であり、書籍編集者でありながら、原田さん自身でも多くの著作がある。
 僕の本棚にも、原田さんが書かれた書籍が何冊かある。
 その中でも、農文教の人間選書『むらの原理・都市の原理』と『食の原理・農の原理』では、僕はいろいろと教えてもらった気がする。
          
 『むらの原理・都市の原理』の中で原田さんは
─ 私はむらと都市は、その原理を異にする社会だと考えています。ここでの原理というのは、その社会を成り立たせている、暮らしの根源的な枠組みという意味です。
 答えを先に言ってしまえば、むらは扶助と義務とで成り立つ自立の社会であり、都市は権利と管理で成り立つ分業の社会だと、私は実感しています。
 扶助も義務も、気持ちとして人の心の中にあるものです。その意味で、倫理的なものといえましょう。一方、権利や管理は、人の外にあるもので、法律を媒介にしてはじめて、人とかかわってくるものです。その意味で論理的なものといえましょう。
 原理がことなる社会は、「すみわけ」をした方がよいと思います。すみわけて、互いにその相違を納得したうえではじめて、互いのアイデンティティが生まれます。 ─
 このように述べて、むらと都市との関係を論じている。

 そして、『食の原理・農の原理』では、〝農と食は同じ原理を持つ〟と述べている。 
─ 農の営みというものを、歴史をさかのぼって原理的につめていくと、結局「つくって食べて余ったら分けてあげる」ということに行きつくと思う。
 「分けてあげる」は、しばしば「収奪される」となったり「売る」にもなった。いまは「食べる」部分よりも「売る」部分の方が多くなっている。それでも、この原理は変わらない。そうでなければ、全国各地に続く、あるいは新しくできもする朝市や夕市でみかける、売り子である農家のおばあさんたちがちょこんと座った姿は理解できない。おばあさんたちは、自分で食べてみておいしいと思うから分けてあげようとしているのだ。おカネをとるのだから経済行為だといってしまえば、なにか大切なもの、原理的なものが抜け落ちでしまう。 ─
 この文章に出会ったとき、僕は、ヤマギシの農産物の供給の原点も、ここにあると心を打たれた記憶がある。


◇上記以外にも、心を打たれる著書はあるが、その中でも僕は『ゆれる旅』が一番好きだ。
 全国各地の農家を訪ね歩いて、そこで営む人達と、心を通わせ、語り合っている随筆集だ。
           
 原田さんの、農を営む人達に対しての優しい眼差しと、心細やかな優しさを感じさせる著書である。

 心からご冥福を・・。合掌・・。