今年読んだ書籍で特に印象に残っているもの

 2024年も残すところ、あと3日となってしまった。
 今年はどんな年だったのかと、自分で書いたブログを振り返りながら、「今年はどんな書籍に刺激されながら暮らしたのだろうか」と、特に印象に残っている書籍をピックアップした。

 

◆1月
 田内学さんの『お金のむこうに人がいる』『きみのお金は誰のため』

    

    

 著者の内田学さんは、元ゴールドマン・サックス金利トレーダーなのだが、経済を「お金・中心から、人・中心に」で考えるという視点で、「経済とは何か」「お金とは何か?」「価格とは何か?」「人が幸せになっていくための経済とは何か?」と、実に新鮮な視点を経済学素人にも分かるように提供してくれる内容の本だった。
 『お金のむこうに人がいる』で解説してくれたことを、さらに分かり易く、物語(小説)風に書かれた本が『きみのお金は誰のため』で、「紙幣は何のために登場したか」「家族間(内側)の労働とお金が介在する社会(外側)の労働の違い」「国の借金と国民の預金の関係」「貿易の赤字、黒字とは?」 などなどを丁寧に解説し、お金は本来、私たちが繋がりあって(知らない人とも)幸せになっていくためのもので、「世界は贈与でできている」「未来には贈与しかできない」とし、「人から人へ、過去から現在、現在から未来へ」の贈与経済の発展のための道具なのだと言っている。

 その「お金」に対する私たちの思い込み、常識と思っていること、それを「本当はどうか?」と考え、視点を変えると、新たな希望に満ちた未来があることを提示してくれる内容なのだ。
 とにかく、「お金とは何か?」「経済とは何か?」「経済と社会の仕組みは・・」と、幸せになるための「お金」に対する思い込みを覆させてくれる本なのだ。
 お金の奴隷になっている現代人へ、「そうだったのか」と気付かせてくれる警告の書でもある。

 

◆2月
 河崎秋子さんの『ともぐい』

    

 第170回の直木賞を受賞した作品。著者の河崎秋子さんは、北海道の別海町生まれ。
 別海町と言ったらヤマギシの村・別海実顕地があるところだ。グーグルマップで検索したら近くに河崎牧場というのがある。
 僕はこの作家を知らなかったが、三浦綾子文学賞大藪春彦賞新田次郎文学賞なども受賞している。「ともぐい」とは、ちょっとビビるタイトルではあるが、彼女のプロフィールを知って興味津々読んでみた。
 「これが40代の女性が書いた文章?」と驚く。とにかく圧巻。
 厳しい自然の中で熊も鹿も兎も、そして人間も、同じ〝生きとし生けるもの〟としての命のやり取りが、リアルに描かれて、その世界に惹き込まれてしまった。

 時代は日露戦争が起こる前の明治後期。
 主人公は、道東の山奥でひとり狩りをして、順応な犬と共に生きる男。男の「熊爪」という名前は、アイヌで育ったという養父が、熊の爪で遊んでいたことから付けた名前。
 その養父から獣狩りも獲物の捌き方も、山菜やキノコの採集も、大自然の中で生き抜く知恵や技術のすべてを教わり生きている。
 毎日の暮らしは、過酷で、壮絶な日々。
 熊や鹿など獲物の肉、皮、内臓や、山で採れた山菜などを売り、必要最低限な物を買うときだけ人里に降りていく生活。人との関わり、世間の動向には一切無関心。
 その主人公・熊爪の、熊や鹿などとの生々しい命のやり取りに呆然とする展開の連続。
 獲物を捌く場面では、その湯気が立ち上ぼり血の匂いが漂ってきそうな感じだし、他から来た猟師が熊に襲われ、その怪我人の潰された目の処置、怪我の治療などは、あまりにも生々し過ぎる描写に唖然とする。
 縄張り争いの熊同士の死闘、熊と主人公・熊爪との死闘、とにかく圧巻。
 そして主人公・熊爪の生死観の変化。そして巻末での森で生きた男の命の意外な、いや成るべくしてなった結末。
 東北地方の「マタギ物語」とは違った猟師の生き様に圧倒された。
 著者は、実家の酪農の手伝いをし、羊も飼育しながら、執筆しているらしい。そんな動物相手の日常だからこそ描けるのかもしれないが、それにしても、ここまでリアルに描けるのかと驚きの連続で惹き込まれた次第。

 その後、暫く河崎秋子の世界に魅せられて彼女の作品を追いかける。
 短編・中編を収録した文庫『土に贖(あがな)う』新田次郎文学賞を受賞)と、文庫『鯨の岬』(ここに収録の「東陬(とうすう)遺事」で北海道新聞文学賞を受賞)を読み、さらに、『肉弾』大藪春彦賞を受賞)と、前回の直木賞候補になった『締め殺しの樹』を読み、三浦綾子文学賞を受賞した『颶風(ぐふう)の王』を読む。
 そして6月には、直木賞受賞後の第一作『愚か者の石』を読み、9月には『銀色のステイヤー読んだ。

    

    

    


◆7月
 夏川草介さんの『神様のカルテ

    

 著者は、長野県で地域医療に従事している医師であり作家である。
 彼の『始まりの木』を読んでから、この作家(医師)に興味を持って、彼の話題作でTVドラマ化もされたという神様のカルテ』文庫4冊を読む。
 主人公の・栗原一止(くりはらいちと)は、信州松本にある病院に勤務する内科医。
 彼が勤務している病院は「24時間365日対応」を看板に掲げて地域医療を担う病院。そこで寝る間も惜しんで、朝から晩まで働き続け、非番の時でも電話で呼び出され、患者優先の生活を、同僚や看護師らとともに患者に寄り添いながら悪戦苦闘する若き医師である。
 この栗原一止という医師、研修医として病院に入るときに出した履歴書には、尊敬する人物も愛読書も趣味も「夏目漱石」と記すほどの青年。いつも白衣のポケットには『草枕』が入っているという個性豊かな医師なのである。
 その医師が、過酷な業務に身も心のすり減らす日々のなかで、「医師とは何か?」を問い続けながら、現代医療の問題点、医療従事者として患者に寄り添う医師や看護師、さらには病院経営の改革を進める事務長の姿などを、克明に描きながら物語は展開するのだけれど、様々な患者一人一人の人生そのものをも、丁寧にきめ細かく描かれていて、それが心に迫る感動の物語を形づくっている。


◆8月
 司馬遼太郎さんの『空海の風景(上・下)

    

 東京国立博物館で「神護寺特別展」が開催され、平安初期彫刻の最高傑作である国宝「薬師如来立像」や、国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」など、空海ゆかりの宝物などが展示されて、その鑑賞を機に、仏教に疎いことを自覚反省しつつ、空海について知りたくなって読んだ。

 司馬さんは上巻で空海の生地である四国の讃岐を訪れ生い立ちから筆を進めているのだが「この稿は小説である」と断り「こうも想像を抑制していては小説というものは成立しがたいが、しかし空海は実在した人物であり、かれの時代のどの人物よりも著作物が多く、さらには同時代と後世にあたえた影響の大きさということでいえばかれほどの人物は絶無であるかもしれない」「しかしながら抑制のみしていては空海を肉眼でみたいという筆者の願望は遂げられないかもしれず、このためわずかずつながらも抑制をゆるめてゆきたい」として、司馬の豊富な知識と想像力によって小説と考察文の中間のような大作となっている。
 司馬さんは空海を類い希な「天才」だったのではないか、その才能はどの様な生い立ちによって育まれ養われたかを、現存する空海資料を読み解きながら生身の人間・空海を想像し、それに寄り添い、その空海の視点で物語を展開して彼が成し遂げた日本仏教史上の偉業を立証しようと試みている。
 本書は密教とは何かという解釈書としても、僕にとっては十分刺激的書籍であった。

 

◆10月
 多田富雄さんの『寡黙なる巨人』『残夢整理─昭和の青春』と鶴見和子との往復書簡『邂逅』

    

 著者の多田富雄さんはすでに2010年に逝去されているが、野口英世記念医学賞などの内外多数の賞を受賞し、国際免疫学会連合会長も務めた世界的な免疫学者。
 『寡黙なる巨人』は、2001年に67歳で脳梗塞で倒れ右麻痺となり言葉も失い、さらに嚥下障害の苦しさ、リハビリの効果と限界などに葛藤しながらの約1年の闘病生活と、その後6年間に左手のみのタイピングで著した手記を加えた書籍で、2008年に小林秀雄賞を受賞している。

 著者は本書で、“その日”に起こったことを「カフカの『変身』は一夜明けてみたら虫に変身してしまった男の話である。…私の場合もそうだった」と我が身に起こった脳梗塞という事態の衝撃を「私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった」と記している。
 命は大丈夫でも身動きはままならず、重い嚥下障害と構音障害が残り、さらに前立腺癌、尿路結石、MRSA(多剤耐性菌)の院内感染、喘息など非情な病魔が攻撃的に著者の身を襲うこととなる。
 著者は闘病のなかで「脳梗塞で倒れる以前の自分は死んでしまった、その自分はもう帰ってこない」と絶望を感じつつ、過酷なリハビリを繰り返しながらもそこに生きている自分の存在を見つめる。
 しかしある日のこと、麻痺している右側の足の親指がピクリと何度か動いたその時の情動を「もし万が一、私の右手が動いて何かを掴むんだとしたら、それは私ではない何者かが掴むのだ」「私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った」「得体の知れない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるものに期待と希望を持った」「新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているかのように感じた」「私には彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた」「自分ではない誰かが、新たに自分の中に生まれ、その生まれた命が、自分の中にうごめいている」と実感し、以前とは異なる「生」を持った新たな自分の再生を感じるのである。
 さらに本書後半の手記の中では、壮絶なリハビリを通して深められた「生きる」ということの意味合い、人間の尊厳、あるいはこれらを尊重しない医療諸制度の現状と問題などをも、体験している身としてその制定の不備に怒り問題点を提起している。
 このように、闘病とリハビリの苦痛の中からも「病を得てからはじめて生きている実感がある」と前向きに「病」「死」と向き合った免疫学者であり、能楽など文化芸能にも造詣が深い文筆家でもある多田富雄に、読者は驚きながらも感動し、いつ我が身にも訪れるかもしれない〝その日、それ以降の自分〟に勇気と希望が残されているという示唆を随所で得ることが出来る。

 この書籍と合わせて読んだのが、晩年に脳出血で半身麻痺となり車椅子生活となりながらも「内発的発展論」という社会発展の理論を創出した国際的社会学者の鶴見和子さんと、往復書簡という形式で意欲的にそれぞれの思索を深め学問を追究するといった『邂逅(かいこう)』という書籍と、多田富雄さんの遺作『残夢整理─昭和の青春』

    

 

◆12月
 福岡伸一さんの『動的平衡

    

 NHKの『最後の講義』とう番組の再放送で、生物学者福岡伸一さんが青学の学生相手に語った講義を観た。
 それをキッカケで、福岡伸一さんが提唱している「動的平衡」をもう少し詳しく知りたくなって、彼の書籍を読み出した。
 福岡さんは、ドイツからアメリカに亡命したユダヤ生物学者のルドルフ・シェーンハイマーが言った「生命は機械ではなく、生命は流れだ」という言葉を紹介して「動的平衡」という概念を説明。

 私たち人間が食物を食べて生命を保持しているのも、自動車がガソリンを使って動いているのと同じだとみる現代科学の『機械論的な生命観』を否とし、それは生命の本質ではない、食事で摂取した分子が再合成されて置き換わって、絶え間なく少しずつ入れ替わりながら生命を保っているのだ。
 「変わらないために絶え間なく変わる」という逆説的にも思えるこのバランスこそが、生命の本質であると説く。
 この「動的平衡」は、古代ギリシャの「万物は流転する」や『方丈記』の「ゆく川の流れは絶えずして」のように、古くから言い継がれてきた考え方と同じであると言う。
 「生きている」とは「動的平衡」によって「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけている。エントロピーとは「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばること、秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、その秩序はやがて失われていく。
 生命はそのことをあらかじめ織り込み、エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという「動的平衡」によって維持されている。しかし、長い間、「エントロピー増大の法則」と追いかけっこしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。
 さらに「個体がいつか必ず死ぬというのは本質的には利他的なあり方なのである。」などなどを分かり易く解説してくれる。
 そして、この「動的平衡」は、組織論をはじめ、あらゆる営みの中であてはまる考え、見方であることを知って、ますます詳しく知りたくなって、彼の著書にはまった次第。
 読んでの感想を一言で書くと「生命とは、生き続けるために、実に不可思議なほど精巧にできたシステムである」ということ。「私の身体が、こんなシステムで営まれているのか?」と、知的好奇心を刺激してくれた書籍だった。

 

◆いま読んでいて来年に繰り越し書籍
 ルトガー・ブレグマン著『 Humankind 希望の歴史 』(上)(下)

    

 実はこの書籍は、2023年に読んだのだが、福岡伸一さんの動的平衡を読んで、生命の凄さに刺激され、「では人間とは何か?」と思ったときに、「人間の本質は、善である」というこの書籍を思い出して、書棚から探して再読中。