映画『君たちはどう生きるか』を観る

 前宣伝も予告もない、ポスターにもタイトル以外にキャッチコピーさえ書かれていない。そんなことで話題になっている宮﨑駿監督の映画『君たちはどう生きるかが、いま公開されている。

               

 午前中、予約していた腰痛治療の骨盤調整を鎌倉の治療院の友人にしてもらった後に、時間があったので「どんな映画だろう」とミーハー的動機と、この映画のタイトル君たちはどう生きるかに惹きつけられて観た。


 「君たちはどう生きるか」と言ったら吉野源三郎の同タイトルの著書が有名である。
 以前に僕も読んだことがあるが、この小説に登場するコペル君と小父さんの織りなす細かな内容の記憶は定かでない。でも、この「君たちはどう生きるか」という言葉は強烈に残っている。

 しかし、この映画は吉野源三郎の著書を原作とした映画ではない。タイトルだけを引用した宮﨑駿ワールドの映画だった。
 そんな自分勝手な期待に反してはいたが、宮﨑アニメ独特の巧みで緻密で大胆であり、そして美しく描き、迫力満点の展開の映像に「何が起こるの?」とワクワクしなが最後まで観賞できたことは確かである。

 映画のストーリーから、この「君たちはどう生きるか」の言葉と結びつけるには、一回の観賞では、僕のなかでまだまだ熟成してないし、まだまだ咀嚼時間が必要だ。

 

 結局、観た感想をいま書くとしたら・・・。
 宮﨑駿監督は、現代を生きる老若男女に、年長者としての役割というか、するべきこととして、現代を生きる僕たちに君たちはどう生きるかと問いたかったのだな、というか、問いかけるとしたら、これしかないという気持ちでこの映画を作ったのだなと思った。

 いま、僕たちが生きている世界は、ある日突然、思いも寄らない出来事、予測もできないことが次から次と起こっている。ウクライナへのロシアの侵攻だってそうだし、日々報道される事件もそうだ。自然環境だって異常気象が毎年毎年、過去の記録を超えた状態で起こって被害をもたらしている。
 それを僕たちは、居間でお茶やコーヒーやビールで寛ぎながら、その映像を見ている。兵士達の射撃も、爆撃されたビル壁も、大規模な山火事も、無謀としかいいようがない犯罪行為も、予想もしなかった浸水で途方にくれる人々の表情も、生々しく映像で見ることができる。
 それについての、様々なコメントを述べている専門家と称されている人の分析と言葉。
 国内はもとより、世界中のそんな情報過多の中で、それに翻弄されていることに気付かない僕たち。時々、時が過ぎ去った後に「あれは、どういうことだったのか。本当は?」と思うこともあるが、情報過多に影響されながら判断している自分である。

 

 そんな僕たちに、宮崎駿監督は「結局、いま、問うとしたら、この言葉しかないのではないか」と、その思いで、このタイトル君たちはどう生きるかという言葉を、僕たちに投げかけるしかなかったのではないか。
 この宮﨑駿監督に「君たちはどう生きるか」と問われた僕たちは、それを、現代を生きる自分のこととして、では「僕たちはどう生きるか」と一人一人が考えるしかないのではないか。

 

   そんなことを、映画の余韻に浸りたくて立ち寄った映画館近くのお店で一杯の生ビールを前に、そして、帰宅の電車の中で、思い巡らしたというのが、今日の映画観賞の感想だ。