小栗康平監督は映画で何を語っているのだろうか

 現在、北千住の「東京芸術センターのブルースタジオ」で、小栗康平監督の映画5作品を1作品づつ2週間サイクルで上映されている。

    

 いま上映されているのは『埋もれ木』だ。
 先週、この映画を紹介してくれた友人・ツカヤマさんと一緒に観た。
 『死の棘』と『眠る男』は観賞しているし、『眠る男』が製作された背景を知りたいと思って上毛新聞社が出している『「眠る男」の記録』という本も読んでいたのだが、『埋もれ木』については、先ずは何の予備知識も入れずに観てみようと、事前にメルカリで入手していた映画パンフレットを読まないで観賞。

    

 やっぱり、一回の観賞では『眠る男』同様、未消化となって今週もう一度観る。


 この映画、夢と現実と過去が交差し、重なり合って堆積詩ながら、静かに美しく、ファンタジーの世界が流れていくのだが、僕はどうしても、TVドラマや一般的な映画のストーリーや台詞の展開で理解することになれていて、小栗監督が映画に求めている世界は、正直理解に苦労している。
 それでも小栗康平という監督は、何を表現しようとしているのか」それを知りたいというのと、自然や日々の暮らしの平凡な移り変わり、静かな時の流れ、そんな映像に魅せられて再度の観賞となっている。

    

 『埋もれ木』の映画パンフレットの冒頭には小栗監督のこのような言葉が載っている。
「・・・画像の中心がTVに移り、映画の商業性ばかりが強調されていくと、映像はどうしても分かりやすいものへと流れがちになる。
 幼児はまず絵本から表現に触れ、親しむ。やがてそこに言葉が入ってくる。
 言葉以前に私たちはイメージで世界を見ているといっても過言ではない。だとすれば、いのちのその最も根本に関るイメージが、人為的に作られた画像というものにとって替わられることについて、私たちはもっと慎重でなければならない。
 『埋もれ木』では、見えていることと、見ようとしていることが、ないまぜになっている。結果として、映画にある程度の抽象性が入ることを避けられなくなった。もしかしたらそれが観客にうまれることがあるかもしれないと思う。
 でもそれでもなお、一人でも多くの人にこうした作品に触れてほしいと願うのです。」

 さらに、監督インタビューの中で、「見えていることと、見ようとしていること」について、次の様に語っている。
 「一言で言えば、見えていることと、見ようとしていることはどう違うのか?ということだったと思います。現実社会が成熟し、停滞感や無力感が強くなってきます。社会がもう変わらない「硬いもの」としして見えてくるのでしょう。それは、僕たちが見えていることに負けているからです。また見ようとする意志も極端に弱まったと思います。見ようとする意志を強く持った時には、世の中をもっと可変的にとらえられたはずです。そもそも形のあるものしか見えないわけですから、形のあるものは硬いから形を現している。その硬さに負けてしまっているということではないでしょうか。硬いけれども置き方を変えたり、位置を変えたりすることによって、それほど硬いものではないかもしれないという意識を持つことが重要だと思います。」

 

 このような小栗監督の「見ようとする意志を強く持った時には、世の中をもっと可変的にとらえられたはず・・・その硬さに負けてしまっている・・・」という言葉に触れると、もっともっと小栗康平の世界に入りたくなる。