小栗康平著『じっとしている唄』(白水社)読解中

 友人の照明技師・ツカヤマさんが、画家・藤田嗣治を題材にした小栗康平監督の映画『FOUJITA』の照明を担当したことは、ブログに何回か書いた。
 そのツカヤマさんから、小栗監督が書いた本『じっとしている唄』をプレゼントされてから2週間が経ってしまったが、まだ読み終わっていない。
 会の新聞「けんさん」の編集で、頭がそちらに傾倒していたこともあるが、一気に読み続けられるという内容でなく、ページをめくっては考え、次を読んではまた考えと、そんな読書を続けている。
        
 この本を読んでいると、小栗監督が映画に求めているものは何かというのが、少しずつ手繰り寄せられるような気分になって、心地良く思考回路を刺激してくれる。
 タイトルそのものからして、何を意味しているのかと思っていたら、最後のⅤ章に「じっとしている唄」という文章がある。
        −−−(本書より抜粋)

 陶芸家の、自身は陶工と言っていた、河井寛次郎が書いた『六十年前の今』という本に次のような一節がある。
     形はじつとしてゐる唄、
     飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、
 絵画で考えれば、飛んでいながらじっとしている鳥、はすぐに納得できる。しかしそこから、形あるものすべてがじっとしている唄なのだ、とまではなかなか行きつけない。(中略)
 河合が言う「形」とは、形をともなって「在る」ことを見せているいっさいの事物、ものそのもの、のことだろう。だから形あるものはすべからくその本然として「唄」をもっている、そう言っているように私には思える。
 「唄」を変化するもの、移りゆく「いのち」のさま、と言い直してみる。形あるものはその変化を、ひと時だけ停止していると言えなくもない。人も「形」あるものとして変化を生きる。その見えてある形はやがて、ついえる。生きものの宿命である。「じっとしている唄」は、内から聞こえてくる。自身の内にあって自他を分けてはいない、いのちの唄である。(中略)
 ものが「在る」ためには、これまた至極当然のこととして、場所が、空間が必要である。中空に観念としてただ浮いている「もの」などというものはない。どんな時も「もの」は場所と共にある。この感覚も私たちから薄れてきている。どこでもどのようにも、と考える便利さがそうさせるのだろうけれど、それ以上に、私たちが暮らしの中で生きる「場」を実感できなくなっていることのほうが大きいかもしれない。私たちは関係としての共同体を見失ってきている。俺は俺は、あたしはあたしはと痩せたエゴが剥き出しになって、これもまた中空に浮いている。
 「もの」「人」は「場」と共にしかない。(中略)
 映画の「場」は虚構として設定されるものだけれど、「形」あるものの「じっとしている唄」を聞くためには「もの」がそもそもどこにあったかを考え、探っていかなくてはならない。 −−−
 小栗監督は、このように書いている。

 一貫して、「人間」をも含む「もの」の存在は、「場」と共有し、「場」との関係性の中で「在る」のだとして、その多様な移りゆく変化を見つめながら、映像表現の可能性を探り続けているのだ。
 人間のあり方、人間そのものの存在を、映画を通して追求しているように僕は感じる。
 Ⅰ章の「変化のなかで」 Ⅱ章の「場をとらえる」 Ⅲ章の「見えないものを見る」
 まだ、この辺りを読んでいる途中だが、何とも示唆に富んだ内容で、一気に読み進められないし、かといって手放すことなどできなくて、鞄に入れ続けては、また、時間を見つけてページをめくっている。