小栗康平監督のエッセイ集『時間をほどく』を読む

 小栗康平監督の映画を『死の棘』『眠る男』『埋もれ木』と続けて観た。
 小栗康平という監督は、映画という画像表現で何を現そうとしているのか、小栗康平の世界に、もう少し入りたいと思って、この映画を紹介してくれた友人・ツカヤマさんからいただいていた書籍数冊の中から、2006年に刊行された『時間をほどく』というエッセイ集を選んで読んでみた。

                

  『眠る男』から『埋もれ木』までの10年間に新聞や雑誌に書いた文章をまとめたものであるが、高校三年の2月に「一時も早く郷里を、父のもとを、離れた」くて東京に出てきた時から、助監督時代、そして監督としてデビュー作『泥の河』から『埋もれ木』までに考えたこと、それらを制作している中でシーンひとつ一つにどのような思いを込めて画像として表現したか、そして最後には「『埋もれ木』撮影日誌」が収録されている。

 言葉に頼らない「感覚」、いのちの最も根本に関するイメージ、作為的でなく、自然も人間も、それぞれの異なる時間の交わり織りなす中で、ゆっくりと日常的に生まれる物語。それらの表現を映画として、どのように追求してきたかが書かれているように僕は受け止めた。

 読みながら僕が書き留めた中に、このような小栗監督の言葉があったので、ここにも記しておく。
◇本書214ページでは「人間が感覚の動物である」ことを再確認したいと書く。
 当たり前のことだけれど、私たちの人生は幼児期の体験から「世界」を学ぶ。野に出て、山に入り、木に登って、花を折り、虫を殺していのちを知ったのだ。ここにあるのは人間の社会ではない。生きものという多種多様ないのちの広がりの中で、まずはいのちとしての「私」を作る。社会などというものは、それから後のことだ。残念なことに、今はここがショート・カ ットされて、子供たちはいきなり社会に出会う。物理的にはそんなことは不可能なはずなのに、バーチャルな世界がそれを成立させてしまう。
 映画はそのバーチャルな表現によって作られている。だからこそ映画は、画像を通じて人間が感覚の動物であることを再発見することに意味があるはずなのだけれど、ここがなんというか、戻ってこられない。戻らずに、そのままただ遊ぶだけの映画ばかりがふえている。

◇本書246ページでは「現代社会の問題点」について
 「埋もれ木」の試写から公開まで、私はどれだけの人からいわれただろうか。今のお客さんはとにかく分かりやすくないと来ませんから、と。ときにはこんな時代によくまあ、こんな映画と非難がましくささやく声もあった。そうだろうか。こんな時代だから作る。
 バブル経済の崩壊後、日本社会は結果の処理を早急に求めるようになった。いち早く決められた公的資金の投入、いわれるところの構造改革、どこをとっても一見、分かりやすそうに見えるだけの対症療法ばかりである。壊れてしまったコップはその破片を拾ってでも、とにもかくにも復元しなくてはとやっきになった。そのコップはもともと必要だったのか、あるいはもっと別な器があったのではないか、そうした問いが発せられたことはなかった。