今年もこの時期、僕が時々、健康維持のために歩く道の、我が家から15分ほどの小さな神社の入り口脇にある「酔芙蓉」の花が咲き出した。
毎年、この「粋芙蓉」については書いているのだけれど、今年も書きたくなったのでおしゃべりする。
この「酔芙蓉の花」。
僕はこの花に出会うと、髙橋治さんの小説『風の盆恋歌』を思い出す。かなり以前に読んだ小説だが、なぜか本箱の片隅に整理されずにあり続ける文庫本で、この花を見ると再読したくなる。
小説の中に「酔芙蓉」についてのこんな会話がある。
「スイフヨウが好きですか」
「スイフヨウ?」
「あの花です」「酔う芙蓉と書きます」
「妙な花ですね。私がついた時と出て来る時と、全く色が違ってました」
「だから酔芙蓉なのです」「朝の中は白いのですが、昼下がりから酔い始めたように色づいて、夕暮れにはすっかり赤くなります。それを昔の人は酒の酔いになぞらえたのでしょう」
「それは、また、粋な」「で、酔った挙句がどうなります」
「散りますな」
「酔って散るのですか」
「一日きりの命の花です」
この小説の中年男女の恋物語ストーリーと、「酔芙蓉の花」の一日かぎりの命とが、小説の舞台となっている9月1日~3日までの越中八尾の「風の盆」とともに、強烈につまでも僕の心に残っているのだ。
◇今年の「酔芙蓉の花」
朝7時ちょっと過ぎ。
昨日咲いて酔いつぶれた花も隠れるように残っている。
午後2時少し前。ピンクに色づき咲いている。
夕方、陽が沈む6時ごろ、花はみんな酔いつぶれた姿に。
◇もう少し髙橋治さんの小説『風の盆恋歌』についても記しておこう。
昔の恋人と偶然パリで再会し、互いの想いを知り、富山県八尾の「風の盆」の3日間だけ逢瀬を重ねるために主人公が古家を買い、地元の老婆に管理を任せ、彼女が来るのを待つ。1年目は来ず、2年目も来ない。3年目に「今年は必ず参ります」というメッセージを、手紙や電話ではなく、酔芙蓉に託して玄関脇に植えられて、待ち人がやってくる。
高橋治さんの情景描写の巧みさに引き込まれながら、単なる中高年男女の切ない不倫物語ではなく、八尾の「風の盆」と「芙蓉の花」が印象に残る小説なのだ。
文庫本の解説に加藤登紀子さんは、
「風の盆の幽玄の美ともいえる、陶酔的な美しさもくりかえし語られ、その音を耳に聞くことは出来ないけれど、かすかにどこからか聞こえているような気にさせられる。/この小説は男と女の恋という形をとってはいるけれど、実は、風の盆を描きたといいう著者の狂おしいほどの情熱によって書かれたものだと思う。」と書いている。
確かに、読み終わっても、中年男女の不倫物語を読んだというよりは、年に一度、八尾の町で3日間繰り広げられる「風の盆の幽玄な世界」の方が強く心に残る。
著者の髙橋治さんは、この恋物語を描くにあたって、巧みな情景描写で「風の盆」を描き切り、また、一日限りの命の「酔芙蓉の花」も、そのための効果素材にして物語の展開に織り込んでいる。
そんな意味でこの小説は、単なる恋物語ではなく、富山県八尾で年に一度繰り広げられている「民謡越中八尾おわら風の盆」と、そこに息づく風土、それを継承している人たちを、巧み筆力描写で描いた名作と言えるだろう。
(この写真はネットから借用)