NHKの放送で『最後の講義』とう番組がある。
「もし人生の最後だとしたら 何を伝えたいか…」人生の最後を覚悟したときに、未来に向けてどんなメッセージを残すのか、何を伝えたいか…と、各界の第一人者が語る講義なのだ。
先日、再放送で生物学者の福岡伸一さんが青学の学生相手に語った講義を観た。
それをキッカケで、福岡伸一さんが提唱している「動的平衡」をもう少し詳しく知りたくなって、彼の書籍を読み出した。
この「動的平衡」という論、実に刺激される内容なのである。
防備録も兼ねて、彼の著書『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』で書かれていることを抜粋して、ここに転載したいと思う。
◇彼は「生命とは何か?」と問われたら「生命とは動的平衡にあるシステムである」というのが回答だと断言する。
では「動的平衡」とは何かだが、〈本書P231~P232〉にそれが述べられている。
『生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され 続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をよ り強調するため「動的平衡」と訳したい。』
『そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
サスティナブルであることを考えるとき、これは多くのことを示唆してくれる。サステイナブルなものは常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。』
◇そして〈本書P245~P246〉では、「利他」がこの世界を支えていると記している。
『科学はこれまで人間に可能なさまざまことをもたらしたが、同時に人間にとって不可能なことも教えてくれた。それは時間を戻すこと、つまり自然界の事物の流れを逆転することは決してできない、という事実である。
これが「エントロピー増大の法則」である。エントロピーとは「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばることと同義語と考えてよい。
秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、その秩序はやがて失われていく。ここで私が言う「秩序」は「美」あるいは「システム」と言い換えてもよい。すべては、摩耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピーは常に増大するのである。
生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である。
しかし、長い間、「エントロピー増大の法則」と追いかけっこしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。』
『ただ、その時にはすでに自転車操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。現に生命はこうして地球上に38億年にわたって連綿と維持され続けてきた。だから個体がいつか必ず死ぬというのは本質的には利他的なあり方なのである。
生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生物が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。
したがって「生きている」とは「動的平衡」によって「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している。』
◇さらに彼は「生命は機械論的なものではない」と〈本書P250~P251〉で、
『私たちは今、あまりにも機械論的な自然観・生命観の内に取り囲まれている。そこでは、インプットを2倍に増やせば、アウトプットも2倍になるという線形的な比例関係で世界を制御することが至上命題となる。その結果、私たちは常に右肩上がりの効率を求 め、加速し、直線的に進まされる。
それが、ある種の閉塞状況を生み、様々な環境問題をもたらした。今、私たちは反省期に至りつつあることもまた事実である。私たちは線形性の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰しつつある。
そこでは、効率よりも質感が求められ、加速は等身大の速度まで減速され、直線性は循環性に置き換えられる。そういう流れこそがロハスの思考なのだ。その意味で、直線的な風車の意匠をらせん状の渦に変えたデザインは見事ですらある。』(注:ロハスとは、健康と地球環境の持続性とに配慮した生活様式)と述べ、
『自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目。そして私たちが住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。
私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不可思議さと興味、そして畏怖の念を持って いたからに違いない。
渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。
そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。』と論を展開する。
◇鴨長明「方丈記」の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と綴り、「水の流れは変わらないように見えても、水そのものは常に入れ替わり続けている」と諸行無常を表現していると言われるが、僕たちの身体もそれと同じように“流れ”であり、耐えず変わりながら今があると福岡伸一さんは言う。
『最後の講義』の冒頭でも「数ヶ月前の私と今日の私は違う」と言うようなことを学生に向かって語っていた。
もう暫く、福岡伸一にハマり続けそうだ。