哲学者の内山節さん著『半市場経済』・読後(2)

 この新書『半市場経済 ─成長だけでない「共創社会」の時代─ 』は、内山さんと共同研究している3人のメンバーによって執筆されている。
       

 先週金曜日に、内山節さんが執筆した第一章の『 経済とは何だったのか。あるいは、労働の意味を問いなおす ─ 経済・コミュニティ・社会 ─ 』について触れたので、今回は、杉原学氏が執筆した第三章の『 存在感のある時間を求めて ─「時間による支配」から「時間の創造」へ ─ 』について記してみたい。


 ここで杉原学氏は「時間」について鋭く考察している。特に「時間の私的所有」というテーマを考察し、僕は、実に興味をもって読み進めた。


◇「未来による現在の支配」という視点での時間
 杉原氏は「現代社会では未来に目標を設定し、その目標を達成するために現在を効率的・合理的に生きることが求められている。」と分析する。
 それは、より豊かな老後、より大きな企業への就職、より有名な学校への入学と「〝未来のために生きる〟ことを義務づけられて」いて、未来のために現在の時間を消費していると述べる。
 この「未来による現在の支配」という構造が「近代以降の資本主義社会が生みだした歴史的特殊な事態なのである。」とも言う。


◇「賃労働」による「貨幣獲得」の時間が意味するもの
 未来というのは常に不確実性をはらんでいるものであり、資本主義社会においては、それへの一般的な対応は「賃労働」による「貨幣の獲得」である。
 この当然のように行われている労働形態は、利潤獲得の手段として存在する「労働力」であり、「自らの〝生きる時間=生命〟の商品として切り売り」であり、「資本主義社会は、人間の生命を商品化することによって成立している」と杉原氏は分析する。


◇明治以降に日本に入ってきた「時計の時間」
 江戸時代には「時間を厳密に計測して切り売りするような賃労働」はなかった。
 1873(明治6)年の明治改暦で、「時間は均一化され、正確に計算できるものへとそのあり方を変え・・」それが「人間の労働力を時間量として商品化するための基盤が成立」したのだと言う。
 それは、「そこで生活する人々の暮らしや想いに配慮するかのような伸縮する」、共同体で共有される関心によって創造される時間でなく、「時間に追われる生活」への変化だったと分析する。


◇時間の「私有化」という概念
 所有権とは「使用権・収益権・処分権」であり、「私たちは自分の時間を自分で使うことができるし(使用権)、対価を得ることを目的に他者に利用させてもよいし(有益権)、自由に処分してかまわない(処分権)ものとして認識している。」と、近代社会以降の私たちの時間の概念を指摘する。
 それは「時間の私的所有」であり「時間の私有財産化」であり、「自己決定権」を含んだ「交換可能な時間」という意識で、賃労働形態は「時間は個人が所有しているという意識が存在」して成り立っているのだと言う。
 「〝私有された時間〟を労働に費やしても、その労働を行うのは〝交換可能な自分〟である。・・・私有したはずの時間が、貨幣に置き換えられながら収奪されてゆく。」というパラドックスが生じてしまったとも述べる。


◇過去と未来を含み込んだ創造する時間
 杉原氏は「時間の私的所有を基盤とする社会の必然的な結果・・」「自分が生きている間さえよければいい」と、自分が存在しない過去や未来は希薄化し、そこに「資本主義社会の限界」を見ることができると述べている。
 これからの社会は、過去に生きた人の思いを汲み取り、未来に生きる人のことを思って、循環的な世界が形成される「過去と未来との間に生きる人間の〝役割=仕事〟・・・過去に生きた死者や、未来を生きる子孫との〝共創〟」を意識した、持続可能性が前提として組み込まれた「共有した時間」が不可欠であり、そうすることで「人間は自らの存在を確かなものとして感じられるのだろう。」と述べる。
 すでに「未来の結果よりも、現在のプロセスこそが重視」した、地域との関係や出会った人との縁で多様な働き方を創造し、その共創的な営みを実践している例を取り上げながら、この章のタイトルでもある「存在感のある時間を求めて、時間による支配から時間の創造へ」と読者を導いている。


◇最後に、この「時間の私的所有」という視点に触れて
 最近起こっている大手企業の不祥事、例えば、東芝におけるトップが関与した「不適切会計」事件や、フォルクスワーゲンディーゼル排ガス不正事件、旭化成建材の杭打ちデータ偽造事件など、なぜ、このようなことが起こるのかと考えていたときでもあり、それらの事件の元に、「時間の私的所有」と結びつくものが潜んでいるのではないか、と思いを巡らせてしまった。