今日、木曜日のおしゃべり

 今日は5月の19日。木曜日でファーム町田店はお休み。
 天気もよい。爽やかな五月晴れが戻ってきた。

 

◇午前中は農作業
 2週間前から妻に要請されていた、妻たちが運営しているデイサービスで認知症の人達が耕作している畑「D-Farm」の、サツマイモ定植前の耕運機での耕しをする。

               

               

   今日も活躍して助けてくれたのが、この小型耕耘機だ。

              

              

 耕しが終わってカワハラさんの畑に耕運機を戻しに寄ったら、ジャガイモの花が咲出していた。

              

              

 ブルーベリーの実も大きくなってきた。

              

              

 今年も収穫時期にはいっぱい楽しませてくれるだろう。楽しみ。

 

◇午後は会の機関誌「けんさん」編集
 各地から送られてきた各地の活動報告、それに参加してみての感想など、コロナ禍の中でも「ウィズコロナ」で工夫しながら楽しくやっている様子が、届いた原稿の中には溢れている。
 真意を損なわないように、投稿してくれた人の心に寄り添いなが編集をする。

 

◇いま、ハナムラチカヒロ著『まなざしの革命』をじっくり再読中

 ウクライナの戦禍が、連日TVの画面に映し出されている。こころを痛めながらそれを観ている自分。それに対してやるせない自分。
 いま、長年、北欧で中立的立場を保っていたフィンランドスウェーデンが、NATO加盟を申請しているというニュースが流れている。
 こんな世界情勢になる前に書かれたハナムラチカヒロさんの『まなざしな革命』の中の、第三章「平和」には、次のようなことが書かれているので、備忘録のつもりで抜粋記載する。

               

               

 ハナムラチカヒロさんは、次のように論じている。

~誰もが平和を望むのに~
 ほとんどの人々は平和を望み、そもそも戦争などしたいとは思っていない。私たちの心の中には、欲や怒りが実感として確かに存在しているが、それが戦争を起こしたいと思うほど大きなものへと育つことは稀である。「あれが欲しい」「良い暮らしがしたい」という日常的な欲はあったとしても、「他国を侵略して搾取したい」ということへは単純に結びつかない。また「あいつは許せない」「腹は立つ相手を困らせてやりたい」という怒りがあったとしても、「相手を皆殺しにしたい」というようなレベルの怒りにまでは簡単には発展しない。欲や怒りが育つには、相当なエネルギーが必要なのである。なぜ、戦争が起こることを私たちは容認してしまうのだろうか。(略)
 小さな怒りが刺激され、それに大義が与えられ、他の人々の怒りと同調しながら、いつのまにか大きな怒りのエネルギーへと育つ。(略)

~敵と味方という図式~
 国と国だけではなく、どのようなレベルであっても、「敵と味方」に分けるところから全ての平和は壊れ始める。だから敵と味方という対立構造が煽られるとき、私たちは注意せねばならない。あちら側が「敵」で、こちら側を「味方」とするような価値判断が迫られる場合は特に目を見張る必要がある。この「あちら側」と「こちら側」は、本来は単なる違いに過ぎない。(略)そもそも、単なる違いは判断基準とは無関係である。(略)ひょっとすると、本当の敵は自分のまなざしを向けている相手でなく、そこでの敵と味方という図式の中には存在しないのかもしれない。(略)

~平和の順番~
 平和であるということは、安全性が確保されていることだ。(略)囲いを設けるのは安全性を担保して平和でいようとするためなのに、囲いを設けることで平和はどんどん遠ざかってしまう。非常に逆説的だが、私たちが囲いを設けた段階で実は平和が壊れることはすでに決定している。なぜなら囲いとは必ず何かに脅かされるからだ。(略)
 大切なのはその「平和の順番」ではないだろうか。まず自分の中の平和であり、周りの人々の平和がある。それを社会の平和、国の平和、さらには世界の平和へと拡げていくことで、安全な状態の範囲を大きくしていくべきなのだ。自分の心が平和でないのに、世界を平和にできるのだろうか。自分の平和を脇に置いて、世界の平和は築けないのである。(略)誰かを倒さなければ平和は生まれない、というのは幻想である。平和は何かの条件によって生まれるものではない。どんな条件であっても、平和とはそれぞれが自らの内側に生み出していくものなのだ。
 とはいえ、自分の中の平和を実現するのは容易でない。なぜなら、私たちの心の中こそが、本質的に戦争状態であるからだ。私たちの心には、いつも恐れや怒りがある。(略)
 戦争は、私たちの内側からやってくる。だから私たちに必要なのは、外に囲いを築くことではない。心の内側からやってくる脅威に対して囲いを築くことである。気を抜けばすぐに戦争状態になる私たちの心に、常にまなざしを向けて、見張っておかなければならない。外部の条件によって得られる平和でなく、自分自身で内側に平和を生み出せるようになること。どんな状況であっても、その時、その場で安全に穏やかでいられること。それはとても難しいが、私たちの心の中が平和であるときに、本当の意味で私たちは戦争を放棄することができるのである。(略)

 

 これを読んで、みなさんはどう思うだろうか?