心に残った『折々のことば』から

 毎朝、朝日新聞に連載されている哲学者・鷲田清一さんの『折々のことば』を楽しみに読んでいる。

 今朝は評論家の渡辺京二さんの言葉。

              

 この渡辺さの言葉も考えさせられる内容だが、鷲田さんの解説の中にある「意が通じることと、言葉を巧みに使いこなせることは同じでない」に、心が止まった。

 

 2日前の鷲田さんが紹介している言葉は、哲学者の鶴見俊輔さんだった。

             

 鷲田さんは
 「大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、いいかえると私が自分の一部を失うこと、つまりはその人に私が死なれるということでもある。そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、日づけのある一度かぎりの出来事なのではなくて、喪失という生の体験である。だから後をひく。哲学者の『神話的時間』から。」と解説する。

 

 今年になって、親しくお付き合いしていた2人の友人が、突然亡くなった。
 年が明けて1月10日に、突然亡くなったのはイズ○○さん。
 栃木県の大田原農場で「ふるさとFARMづくり・農業体験」という関東の有志で企画を一緒にやり続けた仲間。
 毎月一回農作業をしながら、夜はお酒を飲み交わしながら、男達で作った料理をツマミに語り合った。

              

              

 怒りを現すことなどほとんどない寡黙な彼は、毎回、幹事を引き受けてくれて、細かなお世話をしてくれた。
 その企画の中での「蕎麦づくり」と「蕎麦打ち」は、10年も続いたメイン行事だった。
 享年60歳という旅立ちだった。

 もう一人、今月の4日に突然亡くなったヤマ○○さん。
 どんなことでも、正面から受け止めてくれて、年上にも年下にも、若者にも、分け隔てなく、丁寧語で話をする、そんな人だった。
 いろいろなことに関心を持ち、多岐にわたって造詣も深く、誰にでも遠慮気兼ねなく率直に意見を述べる人だった。
 読書の幅も広く、いろいろと紹介してくれたし、情報メールも頻繁に流してくれた。
 享年71歳の桜の花が散る時期の、子供達手作り祭壇飾り付けの旅立ち。