ボケの花がきれいだ

 桜の花が咲き出していて、東京では今週末が満開との予報がニュースで流れている。
 そして、今、とてもきれいに咲き続けているのが「ボケの花」だ。

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◇ボケの花
 僕は、ボケの花が好きだし、青春時代の思い出もある。
 僕が社会人になって初めて住んだのが川崎市だ。
 そこに、文芸サークルがあって、その名が「ぼけの会」だった。
 何で「ぼけの会」という名だったのかは定かでないが、毎月「ゼロの日」(10日・20日・30日)に、駅前からちょっと離れた喫茶店で例会を開いて、それぞれが好きな作家を選んで、その作品を発表する場だった。
 安部公房が好きなオダジマさん。太宰治が好きなスギヤマさん。井上靖が好きなシマブクロさん。などなど、僕よりみんな年上だったが、いい人達だった。
 僕はその頃、大江健三郎の初期の作品が好きで、芥川賞を取った『飼育』や、『芽むしり仔撃ち』などを読んで、例会に出掛けたことを思い出す。
 もう、遠い遠い昔の思い出。
 「ボケの花」を見ると、時々、思い出す。

 

◇今日の「折々のことば」
 今朝、僕より先に朝日新聞を見ていた妻が、「今日は宮澤賢治の言葉だよ」と教えてくれた。

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 今日、「折々のことば」に哲学者の鷲田清一さんが紹介したのは、

 

 『 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 宮沢賢治 

 

鷲田さんの解説は次の様な内容だ。
 ─ 詩人の「農民芸術概論綱要」から。人は自己のみならず他者の不幸をも悲しむ。他人のみならず他の生き物、さらに宇宙の苦しみをも苦しむ、つまり共感(シンパシー)が〈人〉の本性であるかぎり、「世界」が幸福でなければ自分も幸福でない。そういえば演劇家・歌人寺山修司も『幸福論』に、とある接客業の女性の言葉を書き入れた。「ひとりで幸福になろうとしても、それは無理よ」(鷲田清一)─

 

 寺山修司の『幸福論』
 昔、読んだような感じもするが、内容は覚えていない。もう一度、読んでみたくなった。