妻が、NPO法人・認知症フレンドシップクラブというのに関係している。
その町田事務局というのを、昨年、妻は何人かの介護関係の仲間と立ち上げて活動している。
その妻の活動にあまり関心がなかったので詳しくは知らないけれど、どうも活動の主眼は、認知症そのものを、偏見なく、多くの人に知ってもらい、地域ぐるみのサポート体制をつくる事のようだ。
その一貫として、
町田駅近くの文化センターで「認知症フォーラム」を開催するというので、1ヵ月ほど前から、やれチラシを作るのを手伝って欲しいとか、当日資料の表紙を作って欲しいとか、帰宅すると半ば強制的にパソコンの前に座らされて、仕方なく関わった経過もあったし、170人会場でまだそこまで参加者が見込めないので「お願い!」という妻の悲壮な言葉に負けて、日曜日にそのフォーラムに「まあ、行ってみるか」と参加した。
しかし、会場に行ってみると、写真のように、前日に読売新聞の多摩版に紹介記事が載った効果もあってか、椅子を追加するほどの盛況だった。
この「認知症フォーラム」の内容は、
第一部が、若年認知症になった2人の方の発病してからの体験や、現在の心境や、これからに向けての生き方を聞かせてもらった。
第二部は、富士宮市の行政としての地域サポート作りの実践紹介だった。
若年認知症に罹ったお2人ともに、50代での発病である。
1人は茅ヶ崎市役所勤務だったNさん。
仕事一筋の行政マンで、茅ヶ崎海岸を「サザンビーチちがさき」と命名し、サザンオールスターズの茅ヶ崎ライブ実現に奔走した人だ。
もう1人は、大学の数学科を卒業後、中学校の数学教師を経て、その後コンピューター会社の第一線で活躍した技術者のSさんだ。
昨年「想定外」という言葉が流行ったが、まさに認知症になるというのは、自分にとっても家族にとっても「想定外」の出来事で、「なんで自分が・・・」というところからのスタートだったらしい。
2人とも、突然訪れた「認知症」という症状に戸惑い、周りの無理解と、自尊心の喪失の日々の中から、家族や周りのサポートを支えに、その「認知症」を受け止め、今と、これからを見つめて、明るく生きる心境を語ってくれた。
「出来なくなった」今の自分を認めて、それを乗り越えて、今をどう生きるか。
そんな2人の姿勢に触れて、考えさせられるものがあった。
そして第二部では、「認知症」という病気を正しく知って、偏見や気嫌いのない中で、温かく、その人を理解して、心を寄せて、その人に合った対応が出来る、地域ぐるみのサポートが、いかに大切かを、行政が出来る部分と、地域住民の一人一人しか出来ないことを、富士宮の実践を通して紹介してくれた。
10数年ほど前から「子どもの育ちは、親だけでなく、地域のみんなで」ということで、子育て環境について論じられてきたと思う。
それが今は、その地域の子育て環境に加えて、若年認知症も含めた介護を必要とする壮・高齢者を「どのように地域ぐるみでサポートするか」という新たな視点が、地域づくりに必要なのだという認識を改めて考えさせられた。
「まあ、妻がやっていることだから、行ってみるか」と思って参加した「認知症フォーラム」だったが、その様な参加動機の僕にも、そういう認識を少しでも植え付けたというのは、この企画は成功だったと、主催した妻に「拍手パチパチ」である。