高橋秀実著『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』を読む

 妻が地域で認知症と診断された人たちが寄るデイサービスで仕事をしていることもあって、認知症に関する本や、若年認知症の人が書いた本は、何冊か読んだことがある。
 先日、新聞の書籍紹介で『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』という本が、いま読まれていることを知って、妻に「こんな本が出ているよ」といったら、「私も聞いてはいるよ、読んでみたい」となって、妻に依頼されて書店で購入。

    

 僕も「おやじはニーチェ・・・」? ニーチェといったら哲学者、どんなことが書かれて読まれているのだろうと、妻に渡す前に読み出したら、いままで読んだ認知症関連本とはまるで異なる本で、認知症とは何か」を哲学的に、日本語論的に考察しているものなので驚き、妻に渡すのを先延ばしして、ザッと一気に読んでみた。

 著者の高橋秀実さんは、東京外国語大学モンゴル語学科卒業後、テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家になった人で、『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞などを受賞した人だ。
 髙橋さんは、2018年12月に母親が亡くなったあとに、父親が認知症と診断され、2020年2月に亡くなるまでの436日を、悪戦苦闘しながら介護を余儀なくされたのだが、その日々の、認知機能を失った父親の言葉や行動に翻弄される中で、「認知症」について本質的に解明しようと試み、父親と向き合い過ごし、ノンフィクション作家らしく記録として残したのが本書なのだ。

 第1章では、認知症の診断基準や認知症患者の特徴なとを専門書籍などから詳しく列記し、それ以降は、父親の言動を例に取り上げながら、「ある」と「ない」の存在論、「もの」や「こと」の認識論、経験と記憶の関係、時間とは何か、人と人の関係論などを、古今東西哲学書、日本語論書籍などから引用して、アリストテレスヘーゲルニーチェ九鬼周造西田幾多郎などの言葉をもとに、認知症の症状を考察し解釈している。
 まさに、介護記録の形をとった哲学入門書なのだ。 
  
 そのような一つの考察例が、本書の裏表紙帯に書かれている。

    

 本書77ページで引用しているニーチェの言葉。
 ニーチェは忘却を「一つの力、強い健康の一形式」としてとらえ、「健忘がなければ、何の幸福も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえないだろう」いっている言葉から、この裏表紙帯に記載されている論考を導き出しているのだ。

   この文章の後に「ありがたき忘却力ということか。私たちは記憶力のほうを能力だと思いがちだが、・・・・人間のように何事もなかったかのように忘却できることは奇跡的な能力なのだ」とし、「そもそも日本語の『忘れる』とは・・・・」と、この日本語の成り立ちにまで考察しているのだ。
 

 最後には、髙橋さんの奥さまの介護論と、その実践も書かれている。
 一般的には「認知症の人の言動は否定せず受け入れる」とされていることに対して、「愛」があるが故に「ダメなことはダメと言うべき」であり「なんでもかんでも肯定するのは失礼」と言い、「介護は愛であり、残忍な復讐」と言い、「家族愛」での認知症介護を語りながら、それを実践する。

 

 なんとも、いままでの「認知症」というイメージに一石を投じる考察の連続なのである。
 ところどころ難解な哲学的解釈に戸惑う箇所もあるが、一読に値する書籍ではある。