佐藤厚志著『 荒地の家族 』を読む

 この佐藤厚志さんの芥川受賞作『 荒地の家族 』は、2月の末に文藝春秋3月特別号に掲載されているのを読んだ。その感想はすでにブログに書いた。
 僕は「フラタニティ」という村岡到さんが編集している雑誌に「文学の眼」という読後感想を毎回載せてもらっているのだが、その締め切りが今日だったので、1週間前から再読して、改めて読後感想を書いて送った。

    


◇震災で生き残った者の苦しみを描く

 東日本大震災からすでに12年が過ぎた。この物語はその震災で生き残った者の震災その後の苦しみの日常を描いた2023年下半期の芥川賞受賞作である。
 僕の中でもあの大津波襲来の目を覆いたくなるような映像記憶はだいぶ風化している。実は被災2週間後にヤマギシの生産物をワンボックスカーに満載して、仙台市の知人家族と、知人宅の近隣の人たちにも届けたことがある。知人宅は常磐自動車道によってかろうじて津波から免れたのだが、知人が案内してくれた海岸付近の壮絶な風景は、いまでもありありと脳裏に蘇ってくる。あの時の被災現場での情景を思い出しながら、この『荒地の家族』を読んだ。

 芥川賞の選考委員の平野啓一郎氏は「震災後十年余を経て書かれるべくして書かれた作品」と書き、島田雅彦氏は「震災によって失われた土地や風景、コミュニティの再生に取り組む主人公の苦闘のルポルタージュである。人は己が無力を感じながらも、絶望的状況にひたすら耐え、誠実を尽くそうとするその態度によって救われることもある。それを態度価値というのだが、本作のテーマはこれに尽きる」と評している。
 物語の主人公は仙台郊外に住む40歳の祐司。津波一人親方として独立したばかりの造園業の商売道具を全て失った。家族は無事だったが、生活のために何でもやって生活を取り戻そうとしているときに、インフルエンザを悪化させて3歳の子供を残して妻が亡くなる。その後知人の紹介で再婚したが、流産のショックから立ち直れず後妻は出ていってしまう。
 そんな主人公・祐司は、不器用ながらも子育てをしながら、妻を失ったのは自分のせいだと思いながら、失われた生活を取り戻そうともがき苦しむ。

 祐司は津波にさらわれ更地になった先にある「白い要塞のように聳え、海から人を守っているのでなく、人から海を守っているように見える防波堤」に立ち「軟弱な地盤に適応すべく、海と距離を大きく取り、なだらかな砂の上に消波ブロックを積み上げる斜傾型の防波堤。壁に囲まれているような圧迫を感じ、脅威を煽られる。/白くすべすべした無機質な防波堤はさざ波立った人の心の様をまざまざと現す」と感じ、「限界まで巨大に設計された防波堤は、ついこの間経験したばかりの恐怖の具現そのものだった。海からやってくるものの強大さをいわば常時示すように防波堤は海と陸をどこまでも断絶して走っている」と、震災前後の自分の生活の断絶と重ね合わせて感じる。
 さらに「海と対峙すると苦しくなった。/海や空を見て苦悩を小さく感じるどころか、むしろいかに自分が虫けらと変わらず、この世で火花のように刹那に存在する取るに足らない命かという事実をこれでもかと痛感させられ、頭が狂いそうになる。/怒ったり、悲しんだりしたところでどうにもならない災厄が耐えがたいほどに多すぎて、右にも左にもいけず、ただ立ち尽くすほかない日が続いた。穴があった。どれだけ土をかぶせてもその穴は埋まらなかった。底が見えず、地獄まで続いている。飛び込んでしまえば楽だという囁きを聞きながら、祐治は無駄と知りながら土をかぶせ、穴を埋めようとした。それは無限に続くと思われた」と生き続けなければならない苦悩の日々が続く。

 そして展開するエピソードは、災厄を遭遇した者にしか分からない葛藤の日々をリアルに描かれて、そこに生きる人たちの心痛む日々の暮らしが読者に重くのしかかる。あの災厄とは何だったのか、復興とは何なのか、死者となってしまった者への罪悪感を感じながら今を生き続けなければならない者の存在。まさに震災から12年が経ち、被災地と今なお災厄に苦悩する人たちへの思いも遠くなりつつある今だからこそ、「震災文学」として一読に値する作品である。