町田は『絹の道』として発展というおしゃべり

 今朝、町田駅に行くときに、健康のためと、ラッシュ時間帯に電車に乗りたくないという時間調整から、バスを乗るのを半分にして歩いた。
 途中、熟した桑の実が枝についている桑の木を発見。

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 「アッ! 桑の実だ」と思って、摘まんで口にしてみたら、懐かしい甘酸っぱい味が口中に広がった。
 田舎で子供のころ、下校時に友だちと、よく口にした懐かしい味だった。
 この桑の実を、ポケットに入れると、潰れて紫の汁が出て汚した。
 その紫の汚れは洗っても落ちない。
 母によく叱られた。

 

 桑の葉は、絹を産みだす蚕のエサ。
 散歩をしていると、時々、桑の木が畑のわきに植わっているのを見かける。
 それもそのはず、町田と絹は深い深い関りがあるのだから・・・。

 

◇町田は『絹の道』で発展
 江戸末期以降、町田が発展した大きな理由は、『絹の道』にあると言われている。
 町田の隣、八王子は江戸時代から繭や生糸の産地。さらに甲州や上州など大生産地からの集積地としても発展。
 そして、横浜港は開国以降、貿易港として発展。当時の輸出品の多くを占めていたのは生糸。国策でもあった生糸輸出のための積み出し港。
 この生糸を、八王子から横浜港へと運ぶルートであったのが町田街道
 シルクロードとして『絹の道』と呼ばれるようになった。
 現在も、町田駅南口のカリヨン広場には、『絹の道』という石碑がある。

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 この『絹の道』は、実は横浜から、キリスト教や自由民権思想など、外国の思想・文化も運んだ。
 特に自由民権思想は『絹の道』沿道の豪農など、村の名主、有力者を中心に広まる。
 町田は石坂昌孝、青木正太郎といった有力な指導者を輩出し、自由民権運動の中心地となった。
 今でも、その町田街道沿いに青木正太郎が住んでいた東京都指定遺跡・青木家屋敷があり、青木正太郎の子孫が経営する「内科・小児科 青木医院」の看板を見ることができる。

 

 その後、現在の町田市を含む多摩郡が属していた神奈川県議会で、多摩郡出身の自由党議員が勢力を拡大、県知事と対立。
 県政の混乱に県知事は多摩郡東京府への移管を政府に要請。東京府としても水源地確保の意味からも多摩郡を管理下に置きたいという理由で、明治26年に神奈川県から東京府に移管されたのだ。

 

 そんな歴史をもつ町田市。
 東京都と言いながら、限りなく神奈川県に近く、都心には遠い。
 市内を走っているバスは、神奈川中央バス。
 その謎も解けるというもの。