6月がスタートして2日目のおしゃべり

 コロナの自粛で迎えた2021年も、もう5ヵ月が過ぎてしまって、昨日から6月がスタート。
 会の機関紙「けんさん」6月号は、今日印刷に入って、明後日には東京に届く予定。

 

 先週は梅雨を思わせる天気だったが、昨日も今日も、比較的爽やかな天気。
 朝の散歩から帰ってきたタケイさんが「桑の実が熟していた」と言うので、ファーム町田店の開店準備が一段落した後、その桑の木を見たくなって行ってみた。

 ここ町田の地は、隣の八王子同様、江戸時代から繭や生糸の産地。さらに甲州や上州など大生産地からの集積地としても発展し、貿易港の横浜に通じる「絹の道」が通っている地だ。
 そんなことで、今は住宅地となり少なくなったが桑畑も多かった。
 今でもその名残の桑の木が伸放題となって所々にある。

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 摘まんで口にしてみたら、懐かしい甘酸っぱい味が口中に広がった。
 田舎で子供のころ、下校時に友だちと、よく口にした懐かしい味だ。
 この桑の実を、ポケットに入れると、潰れて紫の汁が出て汚した。その紫の汚れは洗っても落ちない。母によく叱られたことを思い出す。

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 ポケットにビニール袋があったので、ちょっとだけ収穫してきたら、「子どもの頃、食べた」という人が何人もいて、一粒摘まんで喜んでくれた。

 

 帰りに、その桑の木の近くに、野草のホタルブクロの群生を発見。

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◇映画『いのちの停車場』の原作を読む

 先日、いま、話題となっている吉永小百合主演の映画『いのちの停車場』を観た。
 映画を観ての感動と、そして映画での限られた製作時間では表現しきれない部分もあるのではないかと思って、原作の南杏子さんの『いのちの停車場』を読んだ。

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 映画を観るときに、いつも、原作を「観てから読むか、読んでから観るか」とちょっと悩むのだが、今回に限っては「観てから読む」が正解だったと思う。
 映画では表現しきれない詳細な医療描写や、医療従事者としての葛藤など、さすが医師でもある著者ならではの重厚な内容とテーマを提供する書籍だった。


 特に最終章の「安楽死」については重い重いテーマを投げかけていた。
 「安楽死」には2種類ある。
 延命治療の停止によって患者を自然な形で死を導く消極的な安楽死、いわゆる尊厳死と、医師などの「第三者」が致死薬を投与して死期を早める積極的な安楽死。オランダやベルギーでは、患者の要請に基づいて医師が行った場合に限って積極的安楽死が合法化されているが、日本では殺人罪となる。
 主人公の父親は元神経内科の医師。主人公の娘にこのように言う。
「咲和子、年を取るっていうのは怖いことや。どうしようもない痛みで頭が錯乱しそうなのに、自分で死ぬ力すら残っていない。永遠の苦しみでなく、この痛みに終わりがあると決めることによって、死はむしろ生きる希望にすらなりうる」
「人間には、誰もが自分の人生を創ることが認められている。そうであれば、人生の最後の局面をどのように迎え、どのように死を創るか──これについても、同様であるはずだ。その正当性を、すべての人に理解してもらいたい」


 そんな父の「これが私の本懐だ」という願いに、娘として叶えてやりたいという気持ちと、医師として「決して行ってはいけないことだと信じていた職業倫理」の板挟みに葛藤する主人公。
 それを問われるのは作品中の主人公だけでなく、読む者も問われる。
 命の限界を知った人が望む在宅医療の重要性とあり方、そこに顕在化する安楽死問題。そんな重いテーマを社会に投げかけている。