鏑木 蓮 著『 エンドロール 』を読む

 鏑木 蓮さんのこの小説は、単行本の時はタイトルが『 しらない町 』だったのが、文庫化されたときに、『 エンドロール 』というタイトルに変更された。
 エンドロールとは、「映画やテレビなどで、映像作品の最後に出演者・制作者・協力者などの氏名を流れるように示す字幕」のことである。
 なぜ、タイトルが変更されたのだろうかと思ったが、読み終わった今、エンドロールという、そのタイトルの相応しさを実感している。

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 内容は、警備のバイトをしている映画監督志望の主人公の青年が、マンションで孤独死した老人の部屋の整理をし、そこで、8ミリフィルムを発見。
 その残された映像を観て、心惹かれ、それを撮った老人に興味を持ち、彼の人生をドキュメンタリーにしようと、彼の関係者を探り訪れて話を聞き、孤独死と思っていた老人の波瀾に満ちた人生を知る。
 こんな内容なのだが、「人それぞれには、その人の人生があり、周りの人との限りない縁があり、生きた証がある」という事実をもって、単に、孤独死とか、無縁社会とか、表層的な事象で、一人の人間を判断しがちなことへの問題提起のように、僕には思えた。

 誰かが看取るでもなく亡くなった老人は、生前、映画雑誌にこのような投稿をしている。
 「そのフイルムの善し悪しは、すべてを見終わった後、そこはかとなく感じるものです。オープニングだけでも、またエンディングだけを観て判断するものでもありません。(中略)
 戦争で亡くなった友がいます。彼の最期はけっして幸せではありません。だからといって彼の短い一生が、何も意味もないものだといえるのでしょうか。
 彼が輝いていた時間があったことを私ははっきりと覚えています。心中には鮮やかに、青春時代の彼が蘇るのです。エンディングは最悪でも、彼の青春時代が色あせるものではありません。それまで多くの人が彼と関わり、彼との時間を共有してきた事実は消えないからです。いうなれば、みんな彼を主人公とした映画のキャストだったのです。」

 この物語を読み終わった今、人の一生は、その人を主人公にした物語であって、人はひとりでは生きられないし、多く人との「縁」が織りなす物語で、その人が命尽きたときのエンドロールには、多くの人の名が連なるということを、僕は心温かくつくづく思わされた。