今年読んだ本の中からお薦め-その3・森下奈都著『 羊と鋼の森 』

 この物語は2016年に本屋大賞を受賞し、今年2月に文庫化され、さらに最近この作品が原作となた同名の映画が話題となった。
 本屋大賞を受賞した年にも読んだのだが、映画を観る前にもう一度読んだ本だ。
      
 この物語は、こんな書き出しで始まる。
──森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
 問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで感じたのに、僕は高校の体育館の隅に立っていた。放課後の、ひとけのない体育館に、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
 目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。──

 この冒頭の文章は、北海道の山間の辺鄙な集落で育った主人公が、調律しているピアノの音色に魅せられて、調律師をめざすきっかけのシーンである。
 彼は実家近くの牧場に羊が飼われていた環境で育っている。ピアノは森の木々(木材)から出来て、その音色は鋼の弦を羊の毛のフェルトで出来たハンマーが叩いた音だ。そのピアノの音色に、彼は原風景を感じて、その後の人生のスタートとなるのだ。
 自分には調律師としての才能があるのか、いつになったら一人前の調律師になれるのかと、悩み、葛藤しながら、それでもやり続けて、人間として、調律師として職人技を磨き、田舎で育った純朴な青年は成長していく。
 才能があるかないかなど、誰にも分からない。しかし、いま自分がやっていること、こつこつと続けていることに、無駄なことはなく、それが人生を生きるということなのだと、そんな人生哲学を感じさせる物語だ。
 ピアノの音色、それを生み出すピアニスト、それをサポートする調律師、それらが織りなす音楽の世界。その魅力と、その世界の人々を、温かく、静かに、優しく、洗練された文章で語られた作品だ。
 
 この物語が原作となっている同タイトルの映画についても触れておきたい。
 映画は、調律師をめざし成長していく主人公を山﨑賢人が演じ、彼が調律師になるキッカケとなった憧れのベテラン調律師を演じるのは三浦友和。彼の成長に大きな影響をしている先輩調律師に大河ドラマ西郷どん」でお馴染みの鈴木亮平。三浦は出演のオファーを受ける前に、すでに原作を読んでいたという。彼は、東京新聞の映画紹介記事で「原作の大切な部分が生かされた脚本もとてもいいです。原作ファンの期待を裏切らないと思う」と語っていたが、確かにその期待を裏切ることのない映画だった。
 視覚表現が難しいと言われる音楽の世界を、視覚的に見事に映像化して、原作が大切なテーマとしている若者の成長の一つひとつの日々の葛藤の部分を、忠実に脚本化し、それを、北海道の四季折々の美しさ、森の自然の神秘的な美しさと重ね合わせて、静かに丁寧にカメラアングルはとらえ、原作を読んだときの感動を蘇らせてくれるし、さらに映像が重なり合って重層的に心震えさせられる。ぜひ映画を観た人も原作を読まれることを薦めする。