映画『 いのちの停車場 』を観る

 久々に映画を観る。
 緊急事態宣言で東京の映画館は自粛閉館。
 小田急線の新百合ヶ丘駅は神奈川県だったので観ることが出来た。
 観たのは、先週、公開された吉永小百合主演の『いのちの停車場』だ。

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  主人公の医師・白石咲和子(吉永小百合)は、命を救うことを第一の目的とする東京の救命救急センターの副センター長。
 その夜は白石が緊急患者受け入れ現場の責任者だった。トンネル内の事故で車が炎上し大事故となった重篤患者が運ばれてきて病院内が大混乱。そんな混乱の最中に腹の痛みを訴える少女が運ばれてくるが手が回らない。痛がる少女を見かねた医師免許のない事務員(松坂桃李)が点滴を施すという医療行為をして、後に母親からクレームが来て大問題となる。
 その責任をとって現場責任者だった白石は、救命救急センターを辞めて、故郷の金沢にある在宅医療を専門の病院「まほろば診療所」で働くことになる。


 物語は、そこから始まるのだが、これ以上のネタバレ記載は、これから観る人に失礼なので控えるが、ここからが、命の限界を知った人の在宅を望んで過ごす心情と、その家族の苦悩、患者の命だけでなく家族も含めた包括的な心のケアも大事な要素の在宅医療の実態を描き、観る人に多くのテーマを投げかけながら、物語は展開する。
 原作の南杏子さんは、「天国への停車場」と何かのインタビューで言っていたが、その停車場にいるのは、末期の肺癌を患う売れっ子芸者だったり、下の世話を夫だけに許す胃瘻患者だったり、全身に癌が転移したプロの女流囲碁棋士だったり、末期の膵臓癌を患う元高級官僚だったり、治療の施しようがない小児癌の少女だったり・・・、そして主人公の父親もまた骨折をきっかけに病に侵され自分の命を清算しようとするなど、それぞれの終末にスポットを当て、死とは何か、命とは何か、いまを生きるとはどんなことか、そして安楽死の是非までも問い、物語は終わる。

 

 このような人の命という重いテーマを、金沢の自然(雨や雪、夜のとばりなど)が、美しい映像で包み、人と人とが心を許し合う家族的、それ以上の絆を描くことによって、観る人に感動と安らぎを与える映画となっている。
 主演の吉永小百合はもとより、松坂桃李西田敏行広瀬すず泉谷しげるなど多くの実力派俳優の一人ひとりの演技が見事だ。
 モンゴル贔屓の僕としては、みなみらんぼうが「まほろば診療所」スタッフが食堂兼寄り場としているスナック風食堂の親父を演じているのだが、得意料理はモンゴル料理でモンゴルを語りギターを弾く姿が、周りの人達をなんともホッとさせるいい雰囲気の演技だったと思った。

 

 南杏子さんの原作を読みたくなった。
 きっと映画という製作時間では表現しきれなかったものが、もっともっとあるのではないかと思う。

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 このようなテーマが、我がこととして引き込まれ、無意識のうちに感情移入しながら観賞する年齢に僕もなって、この映画に感動できたのだな、と思う。
 そんな意味でも、団塊世代の人にはお薦めの映画である。