「対話」についての新聞記事を読んで

 昨夜、食事が終わった後、ロビーで寛いでいたら、タケイさんが「こんな記事が載っているよ」と教えてくれたのが、昨日(30日)の読売新聞朝刊『あすへの考』に、東大教授の哲学者・納富信留氏さんが「対話 生き方に関わる技法」と題して述べている紙面だった。
 僕も読んでみて、そして今日もう一度読んでみて、とても興味深い内容なのでここに記して紹介したくなった。

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 記事は冒頭のリードで「ツイッターなどのSNSやオンライン会議の普及は、人々が言葉を交わすのを容易にしている。だが現代の日本で、本当に対話といえるものは、どれほど成立しているだろうか」と問題提起。

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 それに対して納富教授は、
 「対話が成立するには、心構えが必要になる。なのに準備や技法を持たないまま、対話をしようと掛け声ばかりかけられるので、結局うまくいかない。」
 「対話で求められる心構えとは何か。これはもう、哲学になります。人間が言葉を使って生きていくという基本に関わる問題です。そもそも私たちはなぜ言葉を交わし、他人と生きていくのか。そこでどう付き合い、どんな言葉遣いをするのか。単なるノウハウやスキルにとどまらない、生き方に関わる技法です。」
 「対話は人間に幸福をもたらすとプラトンは考えました。それは何か成果が得られてハッピーになるというのではなく、言葉を使って議論しながら生きること自体、自分の能力を最大限発揮することになり、生の充実をもたらすという意味での幸福です。」

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 このように対話は「生の充実をもたらす幸福」と位置づけ、「では、対話が成り立つには、何が必要になるでしょうか。」と3つのことが大切と述べている。

 その1「対話者が特定の少数者であること。」ネットを使って不特定多数や匿名の相手に向かって話すのは、「語る相手が一人の人間、人格として扱われないから本来の対話ではない」とし、ソクラテスの「魂に配慮する、魂と魂が向き合うのが対話」の言葉を紹介している。
 その2「対話者同士は対等でなければならない。」とし、立場やステータスに基づいて行われると力関係が入り込んでしまう、立場を超えた「私」で人間同士として向き合い、お互いに言葉を交わすことが求められる。
 その3「共通のテーマを立てるということ。共通の主題を掲げて、お互いに考えていることをぶつけ合う。それが対話の基本。」必ずしも問題の解決が図られるわけではないが、同じ問題に対話者が共に向き合うという場が重要。

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 コロナ禍の今、何処にいても誰でも容易に話できるオンライン対話のメリットを認めながらも「同じ空気を吸うことで感じられる人と人との呼吸、間の取り方、表情などを共有しづらい点で、やはり不十分」であるとも述べている。

 そして、対話で目指すのは『真理』とし、
 「真理を求めるというと大げさですが、なにも重大な真理の発見である必要はありません。生活の中にある真実でいい。」と述べ、「1時間議論して得られた決定と10時間議論して得られた決定が同じなら、1時間で決まった方が効率的じゃないか」という時間的効率よりも、「皆が意見を出し合い、一緒に考えることは、仮に自分とは反対の意見が最後に通ったとしても、自分も一員として参加したという意識を生みます。その決定について〝自分に責任がある〟という自覚をもたらします。・・・長期的には効率的ではないでしょうか。」とも述べている。

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 最後に、「20世紀後半以降、理想を持つことにはシラけた気分があります。でも私は、対話をつうじて理想を語っていくしかないと感じています。現実の社会で善い活動をしている人はたくさんいます。それらの声をつなぎ合わせ、より善い社会へ向かっていくことはできる。理想を追い求めて失敗したとしても、それを語り継ぐことだけでも意味があると思います。」と結んでいる。

 

 この記事を読んで、僕たちが体験したヤマギシズムの「特講」や「研鑽学校」は、まさに「生きるための、幸福になり合うための、本質的な対話の技法」ではないのかと納得した。
 僕が感じたところの勝手な抜粋なので、ぜひ、5月30日の読賣新聞のこの記事を一読することをお薦めする。