僕は、作家・乙川優三郎を、直木賞を受賞した『生きる』を読んで以来、時代小説の作家として注目していた。
そして、乙川優三郎が初めて書いたという現代小説『 脊梁山脈 』を、昨年1月に読んで、ますます乙川優三郎という作家に興味を持った。
今回の作品は、『 R.S.ヴィラセニョール 』。
このタイトルを新聞広告で見て、乙川優三郎がまた新しい分野に挑戦した作品に違いないという直感で、早速、書店で探して読んだ。
内容は、フィリピン人の父と、日本人の母を持つ主人公・レイ(レイ・市東・ヴィラセニョール)の物語だ。
彼女は、武蔵野の美大で染色を学び、房総半島の海辺の古い家を改修した工房で暮らし、染色を生業とする。
日本人としての国籍を持ち、日本語で思考する彼女だが、幼いときからメスティソ(混血児)として、周囲からの軽蔑や中傷を含んだ視線の中で、日本人になれきれない自分に葛藤しながら、大和絵の伝統を基盤として豊かな装飾性・デザイン性をもつ琳派の技法と色合いを追求しつつ、メスティソの自分の色感で、その枠をも打ち破る染め師を目指す。そんな彼女の斬新的な作品は、銀座の老舗の主人から評価されつつある。
彼女の父親のリオ・ヴィラセニョールは、マルコス独裁政権時代の激動のフィリピンの歴史に翻弄された被害者である。彼の父親は新聞記者でマルコスの不潔な野心と、悪徳ぶり、強権政治を告発して殺害され、その復讐を心に秘めながら日本で暮らしている。
主人公のレイの、染め師としての飽くなき追求の日常に、父親のマルコスに対する復習と、正義のために命を賭けようとする尽きる事なき追求が、徐々に明確になり、交差しながら、人種的・環境的な運命の不条理の中で生きることの意義を問いながら、物語は展開する。
実に、読み応えのある、大きなテーマを孕んだ作品であった。
この小説も、乙川優三郎作品特有の、随所に、示唆に富んだ文章が現れ、立ち止まりつつ読まなければならない作品である。
そんな文章の一つを記す。
最後の方に、レイが父親の分骨した遺骨を持って、フィリピンへ向かう機内で乗り合わせた「二、三十代の若い男たち」の描写を次の様に書いている。
『一様に頬笑みを浮かべ、そこそこ行儀よく、声は小さく、贅沢な旅行のはじまりに自足している。そこが不気味でもあった。人との深い関わりや尊い目的のための苦労を面倒がって、本当の友人や恋人を作らない。自身のうちにすべてがあると信じて、他者に無用のレッテルを貼り続ける。立ち向かえば手に入る大きな可能性や美しい世界を夢見ない。たぶんそんな人種だろう。』『それは日本も同じであった。一生の縁と義理の社会が崩れて自画自賛のセルフォン的な生活がはびこり、その分だけ増えた孤独と不安を人生最大の敵にして暮らしている。』
僕は、乙川優三郎のこんな描写表現に出会うと、次に進めなくなり咀嚼ずる時間を費やしてしまう。