朝井まかて著『先生のお庭番』を読む

 2月も今日と明日で終わる。今週の水曜日から3月だ。
 安心していたら、会の新聞「けんさん」3月号の編集時期になってしまった。
 今朝から、頭の中を編集頭脳回路に切り替えて、3月号の発行紙面イメージを捻り出しはじめる。
 夕方、帰宅時に「春一番」という小さな題が付いた「すいせん」の生け花を見つけた。
        


朝井まかて著『先生のお庭番』を読む
 先日は、江戸時代に『好色一代男』『世間胸算用』などを世に残した、約300年前のベストセラー作家・井原西鶴を描いた『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』を読んだので、今回は、長崎の出島でオランダ商館付の医師であるシーボルトに仕えた若き植木職人の物語を読んだ。
        

 物語の舞台は長崎の出島。
 京都の植木商で修行中の15歳の熊吉は、オランダから来た医師・シーボルトの薬草園のお世話をする園丁として奉公を命じられる。
 更地から薬草園を試行錯誤しながら作り、熊吉は献身的な働きと、工夫を重ねて見事な薬草園に仕上げる。
 シーボルトと、その日本人妻、黒人の使用人などの信頼を得て、心の交流を深めながら、植木職人として成長する熊吉。
 そして、四季折々の草花に魅入られたシーボルトの、「日本の草花を母国へ運びたい」という意志に、熊吉は長旅の船でも枯れないような知恵と工夫をしぼる。
 最後は、ご禁制の地図を海外に持ち出すという事件に巻き込まれるのだが、草花を通して、育っていく若き植木職の心模様や、日本の四季の素晴らしさや、日本人の自然観の尊さなど、心温まる感動の物語だ。


 この物語は史実をもとにして描かれている。
下記は【ウィキペディアより引用】
シーボルトの日本学における貢献
 シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。
シーボルト事件
 文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。
 なお、シーボルト安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。