会の新聞「けんさん」新年号の編集も、最終校正が終わって、先ほど印刷屋さんにデータを送り、一段落ついたので、今夜はゆっくりと本のおしゃべりを書く。
先週、出張の電車に乗る前に寄った書店で、新刊新書の平積みの中にあったのが高橋源一郎著『丘の上のバカ〜ぼくらの民主主義なんだぜ2』だった。
昨年刊行した朝日新聞のコラム「論壇時評」などを収録した『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編らしいが、僕はそれは読んでいない。
でも、この本で、高橋源一郎は何を言っているのだろうと興味を持って読んでみた。
読み終わっての感想は、一言で「普通の言葉で書かれているが、内容は深く、難解なテーマで、随所で立ち止まって考えさせられた。」と言うこと。
この本のタイトル「丘の上のバカ」について、高橋さんは「まえがき」で、次の様に書いている。
『このタイトルは、いうまでもなく、ビートルズの名曲に由来するが、その「丘の上のバカ」は、地動説の発見者、ガリレオ・ガリレイのことだとされている。
世間の指弾を浴びながら、「バカ」と罵られながら、彼は、一つの真実にたどり着いた。そのエピソードを聞いたとき、わたしが思い浮かべたのは、異なった時代の、異なった「丘の上」にいた「バカ」ものたちのことだった。
古代アテナイ、プニュクスの「丘の上」で、歴史上初めて、「民主主義」が生まれた。だが、現代とは異なり、「民主主義」は、生まれた直後から、愚かなものだ、との批判にさらされつづけてきた。
「民主主義」は、「丘の上のバカ」ものたちが創り出した。しかし、彼らは、ほんとうに愚かだったのだろうか。「民主主義」について考えるとき、わたしは、いつも、その淵源にいた「バカ」ものたちのことを考えるようになった。』 と書き、
さらに高橋さんが、最も影響を受けたのは哲学者・鶴見俊輔さんで、『わたしは、なによりアマチュアであることを鶴見から学んだ。(中略)そして民主主義はアマチュアのものである、という考えを、わたしは鶴見から受け継いだように思う。』と書いている。
高橋さんは、その古代アテナイで生まれた民主主義は「このようなものだった」と数々の学者が書いていることを例に挙げて、最後に、橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』から「民主政と官僚制とは根本のところで相容れない。自分の専門領域だけに閉じこもる無機能な人間だけが社会を構成するようになったとき、民主政は生きることをやめるだろう」という論を例に挙げて、民主制の根底にはアマチュアリズムがあったと論証する。
本書を読み終わったばかりで、まだまだ消化不良で、僕の中でも醸成されない部分が多々あるが、あえて本書で僕の印象に残った部分を記しておくとすれば…、
その1つは、
オバマ大統領の広島演説における「私」の不在と「私たち」の多発に対する、高橋さんが違和感をもったことの「それはなぜか」ということ。
もう1つは、
美智子妃が「国際児童図書評議会」大会の基調講演で話された内容を、「ひとりの人間として」のことばとして、高く評価できるのは「それはなぜか」ということ。
そしてもう1つは、
哲学者・鶴見俊輔の思考に、鶴見さんの知性を感じる「それはなぜか」ということ。
このことについては、もう少し説明すると、
「難しい問題を与えられる → 考える → 回答が見つからない → なんとか(みんなが考えるような)回答を見つける。」
これは、「どこかにある正しい回答を探しているだけで」考える回路ではないと言う。
僕も往々にして、それをやっているとドキリとさせられた。
それに対して、鶴見さんは、「難しい問題を与えられる → 答える。」と速い。
これは、鶴見さん自身の「身心」からの「わたしなら……する」というものから回答するからだと高橋さんは分析する。
ここまで書いて、本書については、まだまだ消化不良の自分に気付くので、この辺にする。
関心ある人には、本書を読んで頂くしかない。
実に、考えさせられる内容満載だから…。