今日という日のおしゃべり

 今日4月26日は、4(よい)26(風呂)の日なのだそうだ。
 帰宅して、食事をすませて、ゆっくりと「よい風呂の日かあ〜」と思って湯につかった。
 そんな今日の朝刊各紙には、復興相の度重なる東日本大震災被災地に対する失言での「辞任」の文字が1面に踊っていた。
 そして今日の4月26日は、いみじくも31年前の1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた日でもあるが、それはあまり記事として載っているのを見つけられなかった。

 そんな今日であるから、最近読んで心に残った記事を2つほど紹介したい。


◇20日の東京新聞朝刊「オピニオン&ファーラム」記事
 『高橋源一郎の「歩きながら、考える」』
       
 作家の高橋源一郎さんは、映画『この世界の片隅に』の舞台となった広島県呉市広島市を訪ね歩いて、そこで考えたことを書いている。
 僕も、この映画『この世界の片隅に』は、先月観て、強く心に残った映画である。
 高橋さんのお母さんは、戦争中、広島の陸軍兵器補給廠(しょう)に勤めていて、「ホームシックになって実家のある尾道に戻り、6日早朝に、広島に戻ろうとした」らしい。
 尾道から広島へは、「夜明け前の4時31分に尾道を出発、終点の広島に到着するのは朝7時58分。」の列車があって、「6日の早朝、その列車に乗るために、わたしの母は尾道駅に出かけたが、1人前で切符が売り切れ、乗ることができなかった」と、その列車に乗れなかったことで「命拾い」した話を「幼い頃から繰り返し、聞いて育った。」と書いている。
 そんな高橋さんが、母の体験を振り返りながら、
 「母にとって、戦争はたまたま遭遇した『天災』だったように思える。いや、母だけではなく、その時代を生きた人びとの多くにとって、戦争は、ただの日常に過ぎなかった。通りすぎてしまえば、次にやって来る再建の日々こそが大切なのだ。過去に拘泥するより、そんなものは忘れて、いまと未来を生きること、それが彼らの願いだったのかもしれない。だから、彼らは、過去を忘れた。過去は単なる思い出話になったのである。」と書いている。
 「『この世界の片隅に』が異例のヒットになったのは、そこに、みんなが忘れたはずの『過去』が生々しく存在していると感じられたからではないだろうか。誰の『過去』が? わたしたち日本人全てにとっての『過去』が、である。」
 「いつしか、わたしたちは、『過去』のない人間、自分がどこから来たのかを知らず、それ故、どこに向かうのかを想像できない人間になっていたのかもしれない。だが、それでいいのだろうか。過去を失う時、わたしたちは未来もまた失うのではないだろうか。」と書き、『過去』を失うことによって「どんな痛切な経験」も、他人事のように感じてしまう事に対しての警鐘をしているように僕は感じた。
 東日本大震災も、福島原発事故も、時の流れの中で風化し、「痛切な経験」の過去を失いかけている僕たちに対して・・・。


東京新聞・首都圏生活情報紙『暮らすめいと』の記事
 「ソ連の情報隠しで始まった チェルノブイリ原発事故」
        
 4月26日に事故が起こったが公表されず、当時の新聞では、29日の朝刊1面にやっと「ソ連原発 放射能漏れ?」という記事が載り、北欧三国の観測機器の異常値から「ソ連原発で何らかの事故が起きたのではと懸念される」と推測しながら「ソ連原子力エネルギー当事者は、ソ連領土内では放射能漏れのいかなる原発事故も聞いていないと言明した」と書かれていると紹介している。
 そして、翌30日に、やっと住民情報として「死者2千人超す?」というタイトルで報道され、その後、ソ連当局の秘密主義に批判が高まったと当時の様子を紹介している。

 その秘密主義の中での出来事が、いかに甚大なものだったかは、ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチさんの『チェルノブイリの祈り』を読めば分かる。
 前にもブログに書いたが、この『チェルノブイリの祈り』は題名の通り、チェルノブイリ原発事故から10年以上が経過した時点で、事故に関わった被災者50人ほどへのインタビュー記録だ。
 事故直後に駆け付けて消火活動をして被ばくし亡くなった消防士の妻の証言。
 3日間の避難と聞いて避難した地域住民たちの証言。
 立ち入り禁止地区の除染作業や、事故処理に駆り出された軍人たちの証言。
 核エネルギー研究所の元所長や研究者の証言。
 避難先でチェルノブイリから来たというだけで差別を受け、死を受け止めなければならない子供たちの証言。
 などなど、多彩な立場の膨大な人々にインタビューした記録である。
 そのスベトラーナ・アレクシエービッチさんが、昨年11月に福島を訪れて感じたことを、先日、Eテレの「ここの時代」で放送されていたのも僕は観た。