司馬遼太郎著『ロシアについて』を読む

 出版社ロゴスの村岡編集長の奥さまから「読んだら面白かったから・・」と、司馬遼太郎の文庫本『ロシアについて〜北方の原形』が送られてきたので、早速、読み進めていて、モンゴル出張の飛行機の中で読み終わった。
          
 この「ロシアについて」は、『坂の上の雲』と『菜の花の沖』を書かれた時に、ロシアについて考えたことをまとめた評論集で、読売文学賞を受賞しているだけあって、歴史を検証しながらの、実に内容の濃いものである。
 書かれたのは1986年と30年前だが、その内容は、目から鱗的内容も多々あるし、今もって遜色を失っていない論評だから驚く。
 モンゴルについても、多くのことが書かれていて、本当にいい本をいただいたと、村岡さんの奥さまに感謝している。

 本題のロシアにまつわる考察の中で興味を持った何点かを、思い出す範囲で列記するとすれば、


1)ロシアの貴族と、日本の江戸期の大名の違い。
「ロシア貴族は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有物の上に載っている農奴も私物だった。農地・農奴は持ち主の貴族の意思によって売買される。これに対し、江戸期の大名は、そもそも自分の城を売買する権利すらない。お国替という配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたして出ていった。」
 なるほど、欧州各国の貴族もそうだと思うが、その貴族と違って、大名は領地を私有しているのでなく、租税徴収権があっただけなのだ。
 この違いは、日本人の所有に対する意識構造にかなり影響しているのではないかと僕は納得。

2)当時のロシアの日本への関心は領土にはなかったということ。
 「シベリアの産物を日本に売り日本から食糧を買いシベリア開発を容易にしたい処にあった」と、極東の文明国・日本という国から、食料を仕入れて慢性的欠乏を解決したいがためと、毛皮などの販売ルートを得たいがためというのが歴史的実態だったらしい。

3)黒船で来航してきたペリーの本音。
 「当時、アメリカの捕鯨業界は日本に寄港地をもとめていた。」「ペリーはもともと恫喝と威嚇こそ東洋人相手には有効だと認識し、その方針でやってきて終始つらぬいた。ペリーは成功したが、品性のわるさを歴史に記録させた。かれは下僚からも好かれていなかったし、むしろ憎悪され、軽蔑されていた。」と書いている。

4)モンゴルに伝わったラマ教
 「この仏教はインドで成立したものだが、仏教というよりも、いわゆる左道密教なのである。左道というのは、邪道という意だが、人間の欲望を積極的に肯定し、性交を密教原理の具象的あらわれとし、かつ秘儀とするものであった。」
 ウランバートルのスフバートル広場前に建つ、朝青龍が最上階に部屋を持っていると言われるブルーススカイビルの裏にある「チョイジンラマ寺院博物館」を、今回の出張時の空き時間に参観して、そこにあった阿弥陀如来なのか観音菩薩なのか、黄金の仏像の男女合体像を見て「ラマ教とは、そうだったんだ」と納得。
 「清朝は、ラマ教がモンゴル人の悍気(かんき)を殺ぐ上で大きな効果がることを知ると、この普及と奨励を政策化した。」らしい。
 *参観した「チョイジンラマ寺院博物館」については、時間がある時に別に書く。


 これ以外にも、他国から見たら信じがたいほどの「非武装だった江戸期の日本」や、ヤルタ協定で「モンゴルと千島列島が同列項目で確認された事実」が、現在まで続いている北方領土問題の根源となっているなどなど、実に興味をひく内容も書かれている。


 今日は、もう遅いので、この辺にするが、もう一度読み返そうかと思うくらい、内容のある歴史的考察の評論集だ。さすが司馬遼太郎である。