姫路城Photoと大名についてのおしゃべり

 先週、兵庫県ヤマギシの村・北条実顕地を訪れた帰りに、世界文化遺産の「姫路城」に寄った。
 僕が20歳代のころ、某電機会社に勤めていたとき、半導体製造工場が姫路にあって、そこに3ヵ月ほど長期出張していたことがあった。
 そのときに、休日の暇をもてあそび、姫路城を何度か散策したことがあったが、45〜6年ぶりのお城参観だった。
 天候にも恵まれ、5年をかけて漆喰壁の塗り替えや屋根瓦の葺き替えなど大修理を3年前に終えた、別名「白鷺城」は、威風堂々と白く輝いていた。
    
 大手門には「世界遺産登録25周年」と掲げられていた。
    
    
    
    
 このお城は、地上6階の天守閣まで上がるのには急な階段を登らなくてはならない。
 それがまた、この城のいいところである。
 地上から5階まで東西2本の大柱が城を支えている。
    
 天守閣には、この地・姫山の地主神が祀られていた。
    
 天守閣からの展望。
    
    

◇大名についてのおしゃべり
 姫路城は、黒田官兵衛が生まれた城でもあるし、羽柴(豊臣)秀吉、本多忠政(徳川四天王の一人・本多忠勝の子)などが城主となっているし、徳川家康の孫娘・千姫大坂夏の陣での大阪城落城の際に救い出されて、その後10年間住んだ城でもある。
 そんなことを、参観時にもらったパンフレットを読んでいたら、司馬遼太郎の『ロシアについて 北方の原形』という著書に中で、日本の「大名」とロシアの「皇帝」の違いについて考察している文章を思い出した。
 江戸時代の大名(将軍も含む)の存在そのものの位置づけが、いかなるものだったかを、分かり易く述べているので、少し長くなるが、ここに転記させてもらおう。

 ─ ロシア貴族(皇帝もふくむ)は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地の上に載っている農奴も私物でした。農地・農奴は持主の貴族の意思によって売買されます。おなじ土地でも農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下がきまります。
 これからみると、江戸期の大名(将軍もふくむ)は、はかないものでした。ロシア貴族個人にとって、「おれ」という意識は、「おれのもの」という私的所有の実感と不離なものだと思うのですが、これにひきかえ、日本の大名個人には、「おれ」も「おれのもの」もまことに希薄なものでしかありませんでした。
 たとえば江戸期の大名には、自分の城を売買する権利がありません。それどころか、お国替という配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたして出てゆきました。さらに例をあげると、江戸初期、広島城を無から造営したのは福島正則でしたが、改易を命ぜられたとき、紀州からやってきた浅野氏にあけわたしたのです。この情景は、所有権が、政則個人になかったことを証拠づけています。 ─
 司馬は、日本における大名(将軍も含む)が、ロシア貴族と本質的に違うのは、領土の地主でなく、領土農民の私有者ではなかったことだと述べている。

 さらに、「私有」がない大名が、明治になってどうなったかも述べている。
 ─ 維新後、太政官政府は、諸藩の反乱をふせがため、大名を東京にあつめ、やがて大名の時代はおわりました。明治政府は、実質をうしなった大名に対し、廃藩置県したあと、石高に応じ、家禄をあたえました。「元石高の十分ノ一の家禄をあたえる」(明治二年)というのがその第一段階で、これにはなお士卒に与える給与が入っています。明治四年で大名処分の第二段階に入ります。旧大名はただの個人になってしまいました。明治維新成立の段階での石高の「十分ノ一」をさらに三分ノ一にした程度の金を録としてもらうようになったのです。
 ここで旧大名は、初めて「私有」という権利を得ました。〝大名の解放〟というべきものでした。(以下略)─


 NHK大河ドラマでも廃藩置県の明治初期を放映しているときに、実に興味深い、他国(ロシアをはじめとしたヨーロッパなど)の貴族と、いかに日本の大名が異なった位置づけだったかを認識できた。