稲葉稔著『喜連川の風』を読む

 先週、帰宅時にぶらっと書店に寄ったら、数ある文庫本の中で喜連川というタイトルが目にとまったのがこの本だった。
 それも、文庫の平積みの中に1冊だけ置かれていたのに・・・。
 「喜連川」は、栃木県のさくら市にある。
 そこにヤマギシの村・那須実顕地があるので、僕は時々、喜連川を訪れる。昨日も大田原農場の帰りに寄った。
 そこが城下町で、喜連川藩は小さいけれども由緒ある特別な藩だったというのは、誰かに聞いたことがあったが詳しくは知らない。
 喜連川藩を舞台とした物語なら、話題として読もうと思って購入した。
           
◇内容は、
 細かく書くとこれから読む人にネタバレになって迷惑をかけるので、「BOOKデータベースより」の抜粋で紹介とする。
 「日本一小さいけれど格式は高く、江戸城では大大名と肩を並べる席が用意される喜連川藩。だが石高は低く、藩政は決して楽ではなかった。ある日、藩士の天野一角は、御所様(藩主)の密書を江戸屋敷に届けよと命じられる。なんとその密書、肥後細川家から一万両を借りるべし、という金策の指示だった!話をまとめるまで喜連川に戻れぬ天野一角は、知恵と誠意で無理難題に挑む。」


喜連川藩について
 この物語の舞台となっている「日本一小さいけれど格式は高い」喜連川藩について、本書で説明されていることを拾って記しておこう。

 実質石高はわずか4千5百石しかない。城もなく藩庁は陣屋。家臣は200人に及ばない。
 領内の村はわずか16村(加賀百万石は2110村、宇都宮藩は168村)と、日本で一番弱小藩だ。
 しかし、格式は高く、大名とは1万石からと言われる中で、表石高10万石として江戸城では大大名たちと肩を並べる別格扱い。
 さらに、参勤交代は免除、人質的要素の妻子を江戸に住むことも免除、全国諸侯に幕府から課せられる数々の普請(土木事業)の賦役も対象外。徳川将軍家でさえ「御所」号を名乗れるのは将軍が隠居したのちに「大御所」と呼ばれるときだけなのに、喜連川藩主は、領民、家臣、他国の人々からも「御所様」と言われることを許されてた。
 なぜか。
 喜連川家は、清和源氏の流れを汲む足利将軍家を祖としているからだ。
 征夷大将軍を名乗る徳川家としては、その源氏の統領だから、足利家を重んじ優遇して、権威づけるために足利家の血をひく喜連川家を、客分扱いとして尊崇しなければならなかったのだ。
 実に、特殊な藩ではないか。
 ちなみに、喜連川家は明治維新まで大名格で存続しているのだ。
 そんな喜連川藩を舞台とした物語、僕は興味をもって読んだ。


◇昨日写したPhoto
 この写真は、昨日、喜連川に寄ったときにお丸山公園(東日本震災後は閉鎖)入り口から写した現在の喜連川の風景。
       

 「道の駅きつれがわ」の観光案内看板には、喜連川足利氏歴代藩主の菩提寺「龍光寺」の案内があった。
       

 喜連川は、良質な温泉の地でもある。