作家・高橋治さんが亡くなった

 今朝の新聞の社会面に載っていた「高橋治さん死去」という記事が目にとまった。
 作家・高橋治さんと言ったら小説風の盆恋歌の著者だ。
 もうかなり昔に読んで、ストリーさえ定かな記憶が残ってないけれど、なぜか心に残っている小説だった。
 そして、一度は富山県の八尾に行ってみたいし、風の盆も見てみたいものだと、ずっと思い続けている。
 昨年、本棚を整理した時にも、なぜか文庫風の盆恋歌は処分できなかった。
      

 本棚から取り出して、改めてページをめくってみる。
 高橋治さんの、端正なこの情景描写。引きずり込まれてしまうようだ。
 最初の2ページを読んだだけで「もう一度、読んでみよう」と思ってしまった。
 こんな文章を読んだら、八尾という町を実際に歩いてみたくなるし、風の盆にも実際に触れたくなるし、そこを舞台に繰り広げられるあやうい恋の行方を、誰もが覗きたくなるだろう。
 そして、今回、文庫を手にして気づいたのだが、最後に掲載されている解説は「風の盆─水音と胡弓の音色」と題した加藤登紀子さんの文章だった。
 そこで登紀子さんは「富山県八尾は坂道と水音の街。書き出しの部分でこの水音がとても丁寧に描かれていて、いつの間にか体の中をその水音がくぐりぬけていくような清涼感で満たされる。」と書いている。
 
 登紀子さん同様に、僕も改めていい情景描写だなと思ったその書き出しとは、こん文章だ。時間があるので書き写してみたい。



〝水音が聞えない〟
 そう思って、太田とめは足をとめた。
 高山線八尾駅近くにある自分の家から、一気に長い坂ひとつをのぼってきた。七十歳をこした身にはこの坂がこたえる。越中八尾と呼ばれる富山県婦負郡八尾町には、坂の町という別名があって、ゆるいくの字なりの急な坂が、奥へ奥へとのびている。
(中略)
 涼しさにほっと息を入れながら、とめが耳をすますと、やはり水音はしていた。雪流し水と呼ばれる疎水が、古い造りの家のまだ沢山残る町並みの軒下を、かけ下りるような勢いで流れている。山あいの町は雪が深い。どの家も屋根の雪を下ろすための中庭を持ってはいるが、冬のさなかには下ろしたあとから雪が積もる。そのために、日をきめて、町中が総出で積もった雪を雪流し水に投げ入れる。たかだか五、六十センチほどの幅だが、急な坂を利用した水流は、信じられない早さで雪の固まりを運び去って行く。
 八尾の町では、どこにいてもこの雪流し水の音が耳に入って来る。坂の町であるばかりでなく、八尾は水音の町なのだ。
 それほどの水音を、とめが聞えないと思ったのは、明日九月一日からの三日間のために、町が顔つきを変えはじめているせいだった。〝風の盆〟と呼びならわされた年に一度の行事が来る。独特な音色を出す胡弓が加わった民謡越中おわら節を、人々はのびやかに歌い、歌に合わせてゆるやかな振りの踊りを舞う。養蚕や漆器で栄えたこともあったが、今の八尾には産業らしい産業もなく、普段はひっそりと息をひそめた町である。ただ、年に三日だけ、別の町になってしまったような興奮が来る。そして、町の誰もがその三日間を見つめて生きている。


◇最後の
「普段はひっそりと息をひそめた町である。ただ、年に三日だけ、別の町になってしまったような興奮が来る。そして、町の誰もがその三日間を見つめて生きている。」
 こんな表現で、八尾を描き、風の盆と八尾の人々を描かれたら、誰だって、八尾に行って風の盆の中に身をおいてみたいと思うだろう。