広がる短歌の世界

 ここのところ、岩波新書永田和宏著『現代秀歌』にハマっている。
 通勤電車の中で、ゆっくり、ゆっくりと読んでは楽しんでいる。
 今までも短歌を読むことは好きだったが、今回は著者の解説にうなずきながら、僕なりのイメージを育み、こんなにも短歌の世界に広がりがあることに、あらためて感動しながらページをめくっている。
           

 第2章「青春」より

      海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
                         寺山修司『空には本』(昭33)


 この歌は、以前にも読んだと思うのだが、あらためて読むと、なかなか次のページに進むことができない。
 僕も、海から離れた田舎で生まれ育った。
 海がどんなに大きいか、広いかは、学校で歌った唱歌や写真でしか知らないのに「海って、こんなに大きいんだぞ!」と両手を広げて自慢する少年。
 そんな少年の姿をイメージしながら、故郷の風景を感じ、風を感じ、幼い日々の記憶が蘇る・・・。
            

 永田和宏著『現代秀歌』は、そんな歌が、いっぱい、いっぱい、詰まった新書なのだ。
 著者は「短歌の読み方」について、このように言っている。
 ─ 歌の読みに正解はない。これが私の信念である。どう読めば、自分にとって歌がいちばん立ちあがってくるか、魅力的に映るかが大切なのであって、客観的にこれが「正解」という読みは、短歌にはないのである。─(本書29P)

 ─ ほんの小さな見つけどころであるが、そこからは読み手の精神状態によって、いろいろな読み方が可能であり、許されるのである。歌を読む喜びは決まった読みに辿り着くことではなく、自分だけのいろんな読み方を一首のなかで遠くまで飛ばせてやることにあるだろう。歌の読みに正解がないと、私はこれまでも言い続けてきたのだが、歌の読みは、実は読者の数だけ違ったものがあっていいのである。そういう読まれ方をする歌が、実はいい歌として読者の心に残り続けることになると私は思っている ─(本書113P)


 このような著者の言葉に励まされて、ページをめくって出会う一首に、僕なりにイメージを膨らませているのだ。