韓国人写真家の鄭周河(チョン・ジュハ)写真展

 案内所から地下鉄・東西線で2つ目の神楽坂駅から徒歩で数分のところで、韓国人写真家の鄭周河(チョン・ジュハ)氏の写真展を開催している。
 僕はそのことを、日曜日の早朝のNHK「こころの時代」で知った。
 放送では、鄭周河氏が福島に2年通い続けて、原発事故の前から変わらぬ美しい風景を撮りながら、そこで何が失われたのか「目に見えないもの」を、どう表現するかという思索を重ねた心境を語っていた。
 僕はその時の話から、ぜひ写真展を観たいと思って、帰宅の途中寄り道した。
          
         写真展のタイトルは〝奪われた野にも春は来るか〟

       
 鄭周河氏の写真には、人影はない。
 しかし、写真一枚一枚に、ふるさと福島の、懐かしい山があり、川があり、風を感じた。
 僕は、その風景の中で育った。
 黄色味かかった雑木林、その中に赤く染まったモミジ。
 色づく柿の実と、夕日に染まる無人の民家。
 そして、満天の星空。
      
      

 僕は、写真の前で、ただ、その景色を見つめるだけだった。
 それは、僕の中でも、ふるさと福島のことでありながら、風化し始めた原発事故に対する思いにストップをかけてくれた。


 会場入口近くに掛けられていた韓国植民地時代の詩人・李相和(イ・サンファ)の詩が、福島の地を歩いて写真を撮り続けた鄭周河氏の心境と重なって、重く心に残った。
      


      『奪われた野にも春は来るか』
                 李相和(イ・サンファ)


     いまは他人(ひと)の土地 奪われた野にも春は来るか


     私はいま全身に陽ざしを浴びながら
     青い空 緑の野の交わるところを目指して
     髪の分け目のような畦(あぜ)を 夢の中を行くように ひたすら歩く
     
     唇を閉ざした空よ 野よ
     私ひとりで来たような気がしないが
     おまえが誘ったのか 誰かが呼んだのか もどかしい 言っておくれ


     風は私の耳もとにささやき
     しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
     雲雀(ひばり)は垣根越しの少女のように 雲に隠れて楽しげにさえずる


     実り豊かに波打つ麦畑よ
     夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
     おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね 私の頭まで軽くなった


     ひとりでも足どり軽く行こう
     乾いた田を抱いてめぐる小川は
     乳飲み子をあやす歌をうたい ひとり肩を躍らせて流れゆく


     蝶々よ 燕(ゆばめ)よ せかさないで
     鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
     ヒマの髪油を塗った人が草取りをした あの畑も見てみたい


     私の手に鍬(くわ)を握らせておくれ
     豊かな乳房のような 柔らかなこの土地を
     くるぶしが痛くなるほど踏み 心地よい汗を流してみたいのだ


     川辺に遊ぶ子どものように
     休みなく駆けまわる私の魂よ
     なにを求め どこへ行くのか おかしいじゃないか 答えてみろ


     私はからだ中 草いきれに包まれ
     緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
     足を引き引き 一日 歩く まるで春の精に憑かれたようだ


     しかし、いまは野を奪われ 春さえも奪われようとしているのだ