夕方5時半過ぎ、案内所で帰り支度をしている時に「NAOJIさん、いる〜?」と元気な声がしたので出てみると、JUNKOさんだった。
「来週には、いわきに帰ろうと思ってネ・・・・」
昨年の大震災の後のブログにも書いたのだが、JUNKOさんは、僕が東京案内所に来たばかりの頃、青年部で活躍していた女性だ。
実は、JUNKOさんは生まれ故郷が福島県南部のとなり町。
そんなことで、僕は「JUNKO、JUNKO」と娘のような親しみを持って呼んでいた。
ヤマギシの村にも一時参画していたJUNKOさんだが、村を離れてからは、高校の教師をしている旦那さんと2人の子どもと、福島県のいわき市に住んでいた。
それで、昨年の3月の大震災と原発事故。
JUNKOさんは、放射能が恐くて、いわき市に教師をしている旦那さんを置いて、自分と子ども2人と、旦那さんの実家の東京都大田区に避難してきていた。
「いつまでも旦那と別居もしていられないし、いわきに帰ることにしたの。心配はあるけどね。最近、放射線も比較的簡単に調べられるようになったし、毎日、気にしながらの生活かも知れないけど・・・」
一時避難に終止符を打とうとしているJUNKOさんは、明るく言っているけれども、どこか不安も抱いている様子。
「一時避難で、18歳以下の子どもには1人60万円と大人は8万円をもらったけど、このお金って、どう考えたらいいのかって旦那と話しちゃった。」 そんなことも言っていた。
「だって、廃炉って言っても40年も50年もかかるんでしょ。子どもにどんな影響がでるかも分からないしね・・・」
そんな話をして、
「東京に来たら、また寄るね。」と言って、会の機関紙「けんさん」の4月号からのバックナンバーを「もらっていくね」と手にして帰って行った。
昨年の5月ごろだったと思うが、一時避難して、東京に来たばかりの時に訪ねてくれた時には、
「友達に会おうと高田馬場に来たらサァ。看板があるじゃない。だけど、もうNAOJIさんはいないだろうなァ〜って思ったけど、寄ってみたの。」と言っていたJUNKOさん。
それから時々、案内所に寄ってくれていた。
今日は、
「NAOJIさんも元気でね。」と笑顔を作って、エレベーターに乗り込んで帰って行った。