3月11日・あれから2年

 この日に、どんなことをブログに記したらいいのか、僕は少々、迷っている。
 2年前、あの東日本大震災福島第一原発事故の起こった3月11日。
 テレビも新聞も、特集番組や特集記事を流し、震災地域の復興の遅れを指摘し、原発事故では当時曖昧になっていたことを検証しようとしている。

ドキュメンタリー映画原発の町を追われて─ 避難民・双葉町の記録」
 先週から今週にかけて、震災と原発事故の風化を危惧し「忘れないことが支援」といい、もう一度考えようと呼びかける趣旨の催しを、いろいろな団体が企画している。
 僕のところにも、知人が主催したり、協力している催しへの参加の誘いが、3件ほどチラシとメールで届いた。
 震災と津波による被災地の復興についても大きな問題に違いないが、正直、福島をふるさとに持つ僕にとっては、原発事故で避難しているふるさとの人達というか、放射能汚染されてしまった福島の今後の方が、心情的にも大きな関心としてある。
 そんなことで、知人から誘われた企画の一つの、
 ドキュメンタリー映画原発の町を追われて─ 避難民・双葉町の記録」上映会に行ってみた。
            
 福島第一原発のお膝元、全世帯が避難勧告を受けた双葉町
 埼玉県のさいたまスーパーアリーナに避難し、その後、役場機能も埼玉県加須市に移し、廃校になっていた高校建屋で、今でも避難生活を続けている人達の記録映画だった。
 原発が町の発展と、日本の将来に貢献すると信じて、原発と共に暮らしてきた町民。事故が起こって、何もかも失った複雑な心境が記録されていた。
 震災や津波の復興は、遅くてもその復興に希望を見出すことができる。しかし、原発事故で土地を追われた人達には、どんな光を見出すことができるのかと考えてしまう。


俵万智の短歌
 僕は昔から、俵万智の短歌集を時々手にして、気分転換に読むことがある。
 その彼女を、先週の東京新聞で「放射能の恐怖に戸惑い、懸命に生きる女性たちの姿」の一人として取り上げていた。
            
 彼女は原発事故直後、7歳の長男を連れて、仙台から沖縄に避難した。
 避難した彼女に「遠くに逃げられる人はいいですね」と、その行動に否定的な声がツイッターなどに出されて、彼女は一時落ち込んだらしい。
 彼女は「確かに、どこにいてもできる仕事を持つ私は恵まれている」といいながら「みんなそれぞれの事情があり、百人いれば百通りの行動がある。できる範囲で何とか子どもを守ろうとしているのは同じだと思います。」と言って、次のような歌を詠っている。

        子を連れて西へ西へと逃げていく  愚かな母と言うならば言え
        まだ恋も知らぬ我が子と思うとき  「直ちには」とは意味なき言葉
        何よりも大事なことと思うなり  この子の今日に笑みがあること


 彼女は「今、この国には母性的な優しさが欠けているんじゃないでしょうか。競争に勝とうと負けようと〝あなたが生きていれば、それでいいんだよ〟と、その人のありのままを受け入れる優しさ。それは、原発とか経済効率とは逆のものです。」といい、
 さらに先の歌は「あなたの大切なものは何ですか。」と、みんなに問いかけるつもりで詠んだと書いていた。
 彼女が言っている「国における母性的な優しさ」について、しばし考えてしまった。