三浦しをん著「まほろ駅前多田便利軒」(文春文庫)を読む

 先日、同名の映画を観た時に「原作が読みたくなった」といったら、妻が「私は読んだわよ。面白いから読んだら」と三重県の「春まつり」に出かける前に渡してくれた。
 映画を観て、登場人物それぞれが重いテーマを抱えながら「生きていく」という切なさの中で、それでも「生きるということの幸せ」を感じさせ、また、登場人物一人ひとりの台詞が、意味ありげに不思議と残ったので、原作を読みたくなったのだ。
 
 「まほろ市」が、僕の住む町田市であるので、映画の時もそうだったが展開される場面で「あそこだ」と想像できるのも楽しかった。例えば、我が家・多摩実顕地の近くの「鶴見川源流」地点は、「亀尾川の最源流」として書かれているのである。そこの地名も実際は「小山田町」であるが小説では「小山内町」となっている。

 しかし、そんな事よりも登場人物が発する言葉が、何とも意味ありげに心に残るのだ。そんなことで読みながら、印象的だったページを折って読み進んだのだが、本編を読み終わって最後の「解説」(鴻巣友季子著)を読んだら、ほぼ同じ個所に触れていた。
 登場人物の言葉一つ一つに、三浦しをんが創作を通して表したい心、創作モチーフがこめられていると感じたのは僕だけではないのだろう。
*その1
「母さんは俺を心配しているんじゃないよ。俺に興味なんかないんだから」と言うほど、自分をほったらかす両親を憎む小学生に、
主人公は「死んだら全部終わりだからな」と言う。
小学生は「生きていればやり直せるって言いたいの?」と返す。
「いや、やり直せることなんかほとんどない」と、人生にはどうしようもない厳然とした事実があることを伝えながら、
「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。そのチャンスは残されている」と小学生に言うのである。
*その2
「不幸だけど満足ってことはあっても、後悔しながら幸福だということはない」
*その3
「はるのおかげで、私たちははじめて知ることができました。愛情というのは与えるものではなく、愛したいと感じる気持ちを、相手からもらうことをいうのだと。」
*その4 
「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」
この言葉は本の帯にも載っている。


 これらの言葉が、何とも読み手に素通りさせない、立ち止まってじっくり噛みしめたくなるような余韻を残させるではないか。

 そして、最後の終わり方が清々しい。
   −−−
失ったものが完全に戻ってくることはなく、得たと思った瞬間には記憶になってしまうのだとしても。
今度こそは多田は、はっきりと言うことができる。
幸福は再生する、と。
形を変え、さまざまな姿で、それを求めるひとたちのところへ何度でも、そっと訪れてくるのだ。
   −−− 
 僕は、「ああ、これが三浦しをんのモチーフだったのか」と、ホッとして本を閉じることができた。