ドキュメンタリー映画『 さよなら テレビ 』を観る

 最近、民放テレビ番組に物足りなさを感じていて、NHKEテレBSプレミアムを観ることが多い。
 朝の報道番組でも、民放は新聞記事の紹介からの報道が多く、独自取材してないのかな?と思ってしまう。
 そんなことを日頃思っているので、現在、ポレポレ中野で『 さよなら テレビ 』というドキュメンタリー映画を上映しているのを知って観てみたいと思った。

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 この映画は、東海テレビ開局60周年記念番組で放映されたものを映画化したものだ。


 パンフレットには、『 今は昔。テレビは街頭の、お茶の間の、ダントツの人気者だった。・・(中略)・・しかし、その勢いはもうない。「テレビを観ない」と公言することがクールだった時代を通り越し、今はテレビを持たない若者も珍しくない。マスメディアの頂点でジャーナリズムの一翼を担ってきたテレビが「マスゴミ」と揶揄されるようになって久しい。これは市民社会の成熟か、あるいはメディアの凋落か……。(以下略)』 と書かれていたので、興味を持って観たい。

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 実際の東海テレビ局内で、報道がどの様に作られて放映されるのか、その裏事情を、アナウンサー、ベテラン契約記者、不器用な若手記者の3人を軸に映し出されるドキュメンタリーだった。
 過去にキャスターを勤めていた生放送中に、ミスで映し出されたテロップで大失態のトラウマを抱えながら、報道とは何か、視聴者にどう伝えるかを苦悩し続けるアナウンサーの姿。
 報道の使命とされている「1、事件・事故・政治・災害を知らせる」「2、困っている人(弱者)を助ける」「3、権力を監視する」を貫こうとするが、現実はそうとはならず悩み、諦め、葛藤する契約記者の姿。
 若手育成などの余裕もなく、即戦力をほしいがゆえに採用された派遣の若者が繰り返すミスの数々と1年契約で切り捨てられる実態。
 視聴率の数字に毎朝、一喜一憂しながら、秒単位で編集し製作される編集部の実態。


 これら、さらけ出される内容に、僕は少々、切なくなりながら「こんな感じで番組が作られているのか」と思いながら観た。
 確かに、テレビ報道とは、どうあるべきかを問うドキュメンタリー映画だった。
 しかし、この映画を観た範囲でいうならば、テレビがマスメディアとしてジャーナリズムの一翼を、今後も担うことは、現在のテレビ報道番組制作の仕組みと体質では、かなり難しいのではないかと思える内容だった。

 

*ちなみに、この映画鑑賞は一週間前のこと。現在、新型コロナウイルス騒動で、多くの人が密室に集まる映画鑑賞を控えるように助言してくれることが多い。しかし、このような内容の映画観客はけして多くはない。僕が観た時も10数人だった。このような問題を提言している映画が注目されないことは残念である。テレビ報道がジャーナリズムの本質を発揮できないのは、視聴者である僕たち側の意識と期待欠如にも一因があるのかもしれない。