『 しょぼい生活革命 』という本の中から

 最近刊行された『 しょぼい生活革命 』という本がある。
 イスラーム法学者の中田考さんの司会で、神戸女学院大学名誉教授でもあり武道家でもある内田樹さんと、YouTuberであり著作家の矢内東紀さんという人が対談している本だ。

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  本の内容紹介には『 ほんとうに新しいものは、いつも思いがけないところからやってくる! 仕事、結婚、家族、教育、福祉、共同体、宗教……私たちをとりまく「あたりまえ」を刷新する、新しくも懐かしい生活実践の提案。』とあり・・・、
 内田樹さんのまえがきには『 何か「新しいけれど、懐かしいもの」が思いがけないところから登場してくる。それを見て、僕たちは、日本人がまったく創造性を失ったわけではないし、才能が枯渇したわけでもないと知って、ほっとする。きっとそういうことがこれから起きる。もうすぐ起きる。それが「どこ」から始まるのかは予想できないけれど、もうすぐ起きる。そういう予感が僕にはします。 』と書かれていて、ちょっとワクワクしながら読み始めた。

f:id:naozi:20191227210804j:plainまだ読み進めて半分程度なので、全体的な感想は書けないが、実に話題が面白く、そこで語られる3人の考えは示唆に富んだもので、随所で考えさせられる。

 その一つに、「共同体の基本は参加者全員の持ち出し」というのがあるので紹介したい。
 ここで言う共同体(コミュニティ)とは「同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり(社会)のこと」(ウィキペディアでの定義)と考え、僕たちが日々生きているヤマギシ生活体、あるいは地域社会、そこでの人と人との繋がりやあり方、考え方について、一考に値し、自分を省みたくなる内容なのだ。

 

内田樹さんは、このように述べている。
---(本書48ページ~49ページ)ーーー
 共同体の基本は、参加者全員が「持ち出し」ということだと思います。でも、実際には、「俺は持ち出したけど、みんなは取り過ぎだ」、「俺だけが損をしている、割を食っている」、「あとの連中は俺の持ち出し分でいい思いをしている」と全員が思っているんです。みんなを仲良くさせるために、あれこれと見えないところで心を砕いている人だって、これだけ自分が努力しているおかげでこの集団はかろうじて成立しているのに、どうしてみんなは自分にもっと感謝しないんだ、とちょっとは怒っている。でも、「見えないところ」でしている気づかいは、やっぱり見えないんですよ。そういうことを主観的には全員がやっているわけです。みんなが「オレは見えないところで気づかいしているのに、それに対する感謝が足りない」とちょっとずつ不満に思っている。そういうものなんですよ。
 だから、それが「ふつう」だということにすればいい。共同体というのは、基本的に「持ち出し過剰」で、自分の「割り前」の戻りはないものだ、と。そう思えばいい。出てゆくだけで、それと等価のリターンはない、と。そう思ったほうが気が楽だし、共同体もうまくゆく。お金を出す人もいるし、気をつかう人もいるし、ゴミを拾う人もいるし、それぞれの「持ち出し」のありようは違うんです。だから、出した分だけの割り前が戻ってくるということはあり得ないんです。
 自分にはわりと簡単にできるけど、他の人たちにとってはけっこう難しい仕事というのがありますね。それを担うのが共同体に貢献する仕方だと思うんです。自分には選択的にある種類の仕事については能力や適性がある。そういうものは「持ち出す」ためにあるんです。天賦の才能というのは、自分のために使うんじゃなくて、人のために使うように、天から贈られたギフトなんですから。みんなが自分の「ギフト」を差し出す。すると、みんなのギフトが供託された場所ができますね。そこに「公共」というものが成立する。それが近代市民社会論の基本的なアイデアだと思うんです。