「共に生きる」ということはどんなことか

 NHKラジオの情報・教養番組に『すっぴん!』というのがある。
 その番組の中に、作家の高橋源一郎さんがパーソナリティーの「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがある。
 このコーナーは、髙橋さんが「心にとまった言葉や文章を読み解き、思わぬ魅力やそこに含まれている意味」を紹介しているのだが、先週の金曜日は、えらいてんちょう著『しょぼ婚のすすめ』という本を取り上げていた。
 「えらいてんちょう」はYouTuberであり著作家の矢内東紀さんのハンドルネーム。
 実は、矢内東紀さんとは3度ほどお話をしたことがある。その1回はヤマギシファーム町田店を訪れた時で、多摩実顕地の生活館も案内して僕たちの日頃の生活の場を観てもらった。
 そんなことで先月刊行された、イスラーム法学者の中田考さんの司会で、神戸女学院大学名誉教授でもあり武道家でもある内田樹さんと、矢内東紀さんが対談している『しょぼい生活革命』(この中でヤマギシについても触れている)という新刊を読んだばかりだったので、今回、『すっぴん!』で髙橋源一郎さんが取り上げた『しょぼ婚のすすめ』にも興味があり、放送後に早速読んでみた。

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 『しょぼい生活革命』では、表紙帯に『世界を変えるには、まず生活を変えよう。世代を超えて渡す「生き方革命」のバトン』と書かれているし、本の内容紹介には『ほんとうに新しいものは、いつも思いがけないところからやってくる! 仕事、結婚、家族、教育、福祉、共同体、宗教……私たちをとりまく「あたりまえ」を刷新する、新しくも懐かしい生活実践の提案。』とあり、さらに、内田樹さんのまえがきには『何か「新しいけれど、懐かしいもの」が思いがけないところから登場してくる。それを見て、僕たちは、日本人がまったく創造性を失ったわけではないし、才能が枯渇したわけでもないと知って、ほっとする。きっとそういうことがこれから起きる。もうすぐ起きる。それが「どこ」から始まるのかは予想できないけれど、もうすぐ起きる。そういう予感が僕にはします。』と書いているのだが、僕たちが日々生きているヤマギシ生活体、あるいはヤマギシの会員たちが住んでいる地域社会、そこでの人と人との繋がりやあり方、考え方について、一考に値する内容が述べられていて新鮮な感動を覚えた。

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 今回、放送の中で髙橋さんが取り上げた『しょぼ婚のすすめ』では、矢内さんがまえがきで『本書で取り上げる「しょぼ婚」は「しょぼい結婚」を略した造語で、「とりあえず婚姻を成立させ継続させること、そして社会を成立させ維持していくこと」を目的にしています。』と書いているように、自分は出会って2日で婚約して2週間で結婚した体験を例に挙げながら、結婚によって社会の最小単位である家庭を持つことが、社会人として如何にメリットがあるか、そして、夫婦が家庭を営み子育てするには、こんな考え方で、こんな風にしたらいいのではないかと、いろいろな自分が体験したエピソードを例にしながらハウツー的に分かり易く論じている。

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 放送の中で髙橋さんは、書かれている何箇所かを朗読しながら『これは、結婚だけの話ではない、夫婦の間だけでなく、誰か知らない人と上手くやって行く、知らない他人と暮らすとは、知らない人たちと上手くやって行くには、知らない国同士が上手くやって行くには、ということも基本的にはみな同じ・・・ということまでのテーマが含まれている。今の社会が向いている方向に対して、ちょっとおかしいよと問題提起している』『相手を知らなくてもいい、相手には自分の知らない素敵なところがある、自分にも欠点はある、相手にも欠点はある、欠点がある者同士が補い合うことが、社会を創るということ、それが「共に生きる」ということ』と、矢内東紀さんが言おうとしているのではないかと読み解いているのだ。

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 さらに髙橋さんは、「えらいてんちょう」の矢内東紀さんが、どうしてこのような考え方ができるのかに触れている。
 それは、矢内さんの両親は60年代末の「全共闘運動」を経験して、その後、新しい社会を創ろうとコミューン(共同体)を創り、その中で育ったからではないかと述べている。『しょぼい生活革命』で対談している内田樹さんも、「僕たちの歴史的経験を、一般的な情報としてでなく」、親子関係を通じて、日常的現実として知っているから「そういう経験をした人の目から、世の中はどう見えるのだろうかということにつよく興味を惹かれる」と、髙橋さんと同様に、矢内さんのコミューンの中で培ったものを評価している。

 確かに、矢内さんの論じていることは、頭だけでなく体験している実感として分かり易く、僕たちがヤマギシという生活体の中で日頃考えていること、やろうとしていること、実感していることに通じることが随所に出てくるので、読みながら考えたり、自分を省みたくなる内容なのだ。

 

 では、どんなことが書かれているか、少しだけ記してみる。

f:id:naozi:20200216141643j:plain『しょぼ婚のすすめ』の中から

◇結婚生活のカギは〝譲り合い〟
 人はみな、自分なりの生活のルールやルーティーンを持っています。配偶者は本来、まったく違う環境で育った赤の他人ですので、そもそも価値観が違うのは当たり前です。だったら、自分にこだわりのない部分は譲ればいいし、こだわりのある部分は並べ替えたり歩み寄ったりしてどうやっていく、という姿勢はとても重要です。結婚生活のカギは「いかにストレスなくお互い譲り合うか」と言ってもいいでしょう。
 *共に暮らす中で、価値観の多様性を受け入れることの重要性を言っている。


◇配偶者がいるから「ちゃんとなる」
 「人はちゃんとするようになってから結婚し子育てをするのでなく、結婚し子育てをしていけば自然とちゃんとなる」のです。
 *共同生活をする中で「より居心地の良い関係であろうとし続ける」ことによって人は成長するという。


◇子どもの幸せを親が決めるな
 子どもが幸せになれるように親が有形無形の支援をするのは親として当たり前のことです。ただ、その支援は「子どもを自分の意のままにする権利」とも、「子どもの幸せの定義をかってに決める権利」ともセットになってない、ということです。親は世界の一隣人にすぎないというのも事実です。
*意識しているしていないにかかわらず、親は子どもに対して絶対的な支配権を有するという考えの否定。


◇やらなくても困らないことは、やらなくてよい
 いかによその家庭で普通とされていることであろうとも、我が家で誰もそこを気にしていないのであればやる必要はない。「家庭はこうあるべきだ」という思い込みは捨てましょう。
*誰も困っていないことに、こうあるべきだとして「ルールを設ける」と、余分なストレスになると言っている。


◇「しょぼいホームパーティ」や「しょぼい育児ネットワーク」のすすめ
 そもそも子育て、保育というのは膨大な手間のかかるもので、これを一人ないし二人でやるのはかなり大変です。どうやったら明るく楽しい子育てができるか、と考えたときに、これはひとつの解になり得るのではないかと考えます。
*矢内さん夫妻は実際に実践している。矢内さんが使っている「しょぼい」とは気軽にとか、肩肘張らないサクッと、とかの意味だと思うが、ヤマギシの会員たちが「ともに見合って子育てをしよう」と地域でやっている子育て講座やはれはれ保育、食事会などに通じることを言っている。

f:id:naozi:20200216141643j:plain『しょぼい生活革命』の中から

内田樹さんは「共同体の基本は参加者全員の持ち出し」と述べている。
 共同体の基本は、参加者全員が「持ち出し」ということだと思います。でも、実際には、「俺は持ち出したけど、みんなは取り過ぎだ」、「俺だけが損をしている、割を食っている」、「あとの連中は俺の持ち出し分でいい思いをしている」と全員が思っているんです。みんなを仲良くさせるために、あれこれと見えないところで心を砕いている人だって、これだけ自分が努力しているおかげでこの集団はかろうじて成立しているのに、どうしてみんなは自分にもっと感謝しないんだ、とちょっとは怒っている。でも、「見えないところ」でしている気づかいは、やっぱり見えないんですよ。そういうことを主観的には全員がやっているわけです。みんなが「オレは見えないところで気づかいしているのに、それに対する感謝が足りない」とちょっとずつ不満に思っている。そういうものなんですよ。
 だから、それが「ふつう」だということにすればいい。共同体というのは、基本的に「持ち出し過剰」で、自分の「割り前」の戻りはないものだ、と。そう思えばいい。出てゆくだけで、それと等価のリターンはない、と。そう思ったほうが気が楽だし、共同体もうまくゆく。お金を出す人もいるし、気をつかう人もいるし、ゴミを拾う人もいるし、それぞれの「持ち出し」のありようは違うんです。だから、出した分だけの割り前が戻ってくるということはあり得ないんです。
 自分にはわりと簡単にできるけど、他の人たちにとってはけっこう難しい仕事というのがありますね。それを担うのが共同体に貢献する仕方だと思うんです。自分には選択的にある種類の仕事については能力や適性がある。そういうものは「持ち出す」ためにあるんです。天賦の才能というのは、自分のために使うんじゃなくて、人のために使うように、天から贈られたギフトなんですから。みんなが自分の「ギフト」を差し出す。すると、みんなのギフトが供託された場所ができますね。そこに「公共」というものが成立する。それが近代市民社会論の基本的なアイデアだと思うんです。

 

 このように『しょぼい生活革命』『しょぼ婚のすすめ』という本の中の、さりげない、易しい論述の中に、僕たちが日頃考え続けている本質的なものが示唆されているように僕には感じるのだ。