23年ぶりにオリジナルアルバムを出した岡林信康さん

 ヤマギシ会の1週間の合宿セミナー「特別講習研鑽会(特講)」は、昨年初めからのコロナ禍の影響で開催を自粛していたのだが、「我が子が社会人として出発する前に受講させたい」という開催を望む声が多くあり、出来る限りのウイルス感染防止策を施して、3月7日~14日の日程で開催され、昨日の日曜日に終了した。

 

 その特講開催日(3/7)のブログに書いたが、岡林信康さんが23年ぶりにオリジナルアルバム『 復活の朝 』を発売というニュースを、ネットのYAHOOニュースを見て知った。
 「どんなアルバムなのだろう」と興味津々、早速、アマゾンで注文。
 このアルバム、なんと一時在庫切れという話題のアルバムになっている。

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 YAHOOニュースには、
 45年前に都会を離れ、京都の郊外に居を構え、畑仕事をしながら、まさに「晴耕雨読」の音楽活動を続けている岡林信康さん。

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 「もう歌は書けないと思っていた」という昨春、新型コロナウイルスにまつわることから新曲が生まれ、アルバムが出来上がったらしい。
 アルバムのラストを飾る『 友よ、この旅を 』は、学生運動の時代、若者たちがこぞって歌った代表曲『 友よ 』(68年発表)から半世紀後のアンサーソング
 「反体制歌手みたいなレッテルを貼られて、その象徴が『 友よ 』。それが嫌で嫌で。結局50年近くコンサートでは歌ってない」という曲に、「夜明けが来てこの闇が去ればバラ色の明日がやってくる、みたいな幻想を振りまいてるようなところが気になってた。そうじゃなくて、夜明けが来てもまた日没が来て夜が始まる。で、また朝になる。そういうことを繰り返していくのが人生という旅なんだ。そういうことを今回の歌で言っとこうかなと。ある人に言わすと、この曲で『 友よ 』を成仏させたんですねって。」こんなコメントも載っていた。

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 この「フォークの神様」として昭和40年代に、若者から熱狂的な支持を集めた岡林信康さん。
 実は、50年前の24歳の時に、ヤマギシ会の「特講」を受講している.
 それが、ネット百科事典『ウィキペディアWikipedia)』などに、次のように記載されている。
── 岡林は人や街を嫌い、三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始めるのである。──
 また、「源頭の風景を求めて・・・」というブログ
 (sokoujin.blog90.fc2.com/blog-entry-104.html)にも、
── 19歳の冬、和歌山県奥地の村で、ミカン刈りをしつつヤマギシズムを体験する合宿、「若人楽園村」に参加することにした。── と書いているブログ筆者は、岡林さんについて ── フォーク歌手岡林信康が、ヤマギシ会の「特講」に参加した後に、『 申し訳ないが気分がいい 』という名曲を作っている。── と記している。

 

 確かに、僕が1984年に「特講」を受けた時に、「岡林信康が特講を出発してから作った曲だよ。」と紹介されで、「特講」の最後の晩にみんなで歌った覚えがあるのが『 申し訳ないが気分がいい 』という曲だった。
──『 全ては此処につきるはず どうしてこんなに 当たり前のことに 今まで気づかなかったのか 』──
 こんなフレーズがある曲だ。
 僕は36歳の時に「特講」を夫婦で受講したが、この言葉がぴったりの心境だった。
 当時、大手電機会社で企業戦士としてもてはやされながら、一方で企業内労働組合の役員もやって、家に帰るのは深夜。家族との夕食は稀にするだけ。休日も「仕事!」と家族サービスも子育てもパス。それが通用した時代だった。
 「特講」受講前は、当たり前と思っていたことに、「本当はどうか?」と自分に問いかける1週間で、一言でいえば束縛や執着からの解放。「自由になった。やろうと思ったら、何でもできる自分を見つけた。」そんな記憶がある。

 

 岡林信康さんの『 友よ 』を、当時住んでいた川崎市歌声喫茶エルサルバドル」で熱く歌ったり、組合活動の中で青年婦人部の若者たちと飲んで肩を組み歌った記憶もある。
 そして今、岡林さんが半世紀後にアンサーソングとしてのアルバム『 復活の朝 』のラストを飾る『 友よ、この旅を 』を聴く。

 

 この半世紀の時の流れの、不思議なめぐり合わせ。