5月15日のおしゃべり

 5月の中旬だというのに、昨日も今日も、東京は25℃を超えて30℃に迫る「夏日」が続く。
 これは、7月並みの気温だそうだ。
 今週は、ファーム町田店を担当しているシカタ君が不在だ。
 そんなことで、朝の開店準備を6時半から始めたのだが2時間も費やしてしまって、高田馬場の案内所に着いたのは10時を過ぎていた。
 今日は一日、案内所で仕事。


◇「夏の子ども楽園村」チラシ完成
 いよいよ、これからは夏の企画だ。
 今日、夏に企画されている「子ども楽園村」チラシが、印刷が上がって届いた。
        
 ネット広告も始めている。問合せメールも届きだした。

 
◇今日の昼食
 今日は火曜日で、いつも持参の弁当がない日だ。
 「何を食べようかな?」と、よく行く高田馬場駅前の定食屋さん「大戸屋」に行く。
 選んだのは「海老と野菜の豆チ炒め五穀米定食」898円也。
        
 海老を殻やしっぽの部分までまるごと食べられると、メニュー表に書かれていたので注文してみたが、確かに柔らかく調理されていて美味しかった。


千利休切腹していない?
 昨日の朝日新聞18面「文化の扉」に、こんなタイトルの記事があった。
 「千利休は、秀吉の怒りに触れて切腹した」というのが、一般的な定説となっているのに、それを覆す内容のようだと興味を持ったが、昨日の朝は時間がなく、ゆっくり読めなかったので今日読む。
        
 千利休は、大徳寺山門の楼閣を寄進し、山門の上層部に置かれた自らの木像が、天皇や秀吉がその足下を通ることになって不敬だと秀吉の怒りを買い、切腹させられたといわれる。
 ところが、文教大学中村修也教授(日本茶道史)は、実は、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという説を唱えていると紹介。
 利休が切腹したとされる1591年より後の史料に「その時点で利休が生きていたとしか読めないものが複数ある」らしい。
 秀吉が、大政所の侍女に送った手紙や前田玄以宛ての手紙を読み解き、「利休は生きていたと考える方が自然」だと推測する。
 さらに、利休の弟子で豊前小倉藩主・細川三斎が、利休の子の道安に豊前国に300石を与えていることは、秀吉から追放されて九州に逃れた利休に与えたもので、利休は九州の地で政争から解放され、静かな晩年を過ごしたのではないかと結んでいる。

 歴史の定説が、歴史学者の古文書の丹念な読み解きによって覆される。
 こんな記事に触れると、僕は超興味が湧く。
 

原田マハの『異邦人(いりびと)』を読み終える
        
 さすが、原田マハさんは、美術館の展示や展覧会の企画を担う専門職、キュレーターの経験があるだけあって、今回の作品も、美術作品に造詣があるからこそと思える内容の、画壇の話や画廊の話を巧みに織り込みながら、絵画の世界を描いた物語だった。
 『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』『太陽の棘』など、絵画を巡る作品を読むたびに感動をもらっているが、今回は物語の展開もさることながら、京都の街の優雅な美しさや、四季折々の情景が、目に浮かぶような描写を楽しみながら読ませていただいた。