真山仁著 『 海は見えるか 』 を読む

 僕が、真山仁東日本大震災の被災地を舞台にした作品を読んだのは2作目である。
 前に読んだのは、震災報道に奔走する新聞記者が主人公の作品『 雨に泣いている 』
 今回は、震災被災地で心の傷を負った子ども達と向き合いながら奮闘する教師が主人公の『 海は見えるか 』
        
 前に読んだ『 雨に泣いている 』の主人公の新聞記者が、新人記者時代に阪神・淡路大震災に遭遇し、東日本大震災の被災地に記者としてきているのと同じように、今回の『 海は見えるか 』の主人公の教師もまた、阪神・淡路大震災で妻子を失った過去を抱えながら、東日本大震災後の福島に教師として応援に来ているという設定の物語だ。

 大震災から一年以上経過しても、復興は遅々として進まず、被災ち住民は様々な心の傷を抱えながら、厳しい現実に直面し続けている実態の中で、明日への希望を見つけ出そうとする子ども達に、いろいろな軋轢にぶつかりながら、温かい眼差しで接している教師の姿に心打たれる。
 普段は明るい姿を見せながらも、突然発症する心的外傷後ストレス障害の少年。
 肉親の遺体を捜し、その遺体の洗浄をしてくれた自衛隊員と、その後もメールで交流を続けていたが、その自衛隊員の突然の自殺によって再び傷つく少女。
 国や県の決定の防潮堤建設か、津波で失った松林の原風景の復活か、未来に残すべきはどちらの選択かに葛藤する市民の心情。
 などなどが、7つの物語の構成で描かれている。
 あの震災から今年の3月で7年が経った今、風化しつつある僕の心に警告を伝えるに十分な作品だった。
 これは東北の一被災地の過ぎ去った話でなく、このような被災地の現実があって、それが今もまだ、大きな傷跡を残しているということを、僕たち一人一人が心に刻み、安易に風化させてはならない事実なのだ、と反省させられる読後だった。


◇2011年の被災地風景が蘇る
 この『 海は見えるか 』を読んでいて、度々、思い出したのが、津波が襲った2週間後の宮城県仙台市の海岸地帯の被害地風景だった。
 実は、2011年3月26日に、ライトバンに食料(牛乳、卵 、野菜など)を積んで仙台市若林区の友人宅に行った。
 海岸線の松林は歯抜けのような状態になっていて、電柱も家も全ての物がなぎ倒され、無惨な風景だった。
        
        
        
        
 所々に流された車が放置されている。
 その車に「×」印の白いテープが貼ってあるのを、友人は「あれは、車の中で人が亡くなっていた印だよ。」と教えてくれた。
 そのときの風景が、僕の心に鮮明に蘇ってきた。