今朝の「折々のことば」

 朝日新聞朝刊に連載の哲学者・鷲田清一さんの「折々のことば」に、今朝は、作家の小沢信男さんの言葉が取り上げられていた。
 小沢信男さんとは何度かお会いして、お話しを伺ったことがあるが、最近は年賀状の挨拶になってしまっている。
 「もう、90歳になられたんだなあ〜」と思いながら、今日の「折々のことば」を読ませていただいた。
         


 『 ささやかに不器用に、空振りも重ねつつ、その折々は夢中だったよなぁ。それやこれやに、もはや寛容になっていいのだな。(小沢信男) 』

 鷲田清一さんの解説
 ─ 「九十歳。何がめでたい」(佐藤愛子)という思いもないではないが、人生「まんざらでない」と、過去のドジや挫(くじ)けの連続を笑い過ごせるようになるのも、卒寿を迎えた者への褒美かもしれないと、作家は思う。いやいや、そんな不首尾も今やうろ覚えでしかないという安穏? 連載エッセー「賛々語々」87(「みすず」1・2月号)から。─

        
◇作家の小沢信男さんは、2001年の朝日新聞夕刊の文化欄に、私たちが開催している合宿セミナー「特講」に参加したときの様子と、自分の特講に対する印象を書いている。

 『 一語一会 だれのものでもない 』
 「たしか東京オリンピックのあった年だから、三十七年も昔のこと、山岸会の特別講習会に私は参加した。農業を基盤とする山間の共同体に、一週間泊り込んだのだった。洗面所の歯磨きチューブを置いた棚に、こんな小さな張り紙があった。 『 だれのものでもない 』。なんだいこれは。いかに無所有社会とはいえ朝からお説教かい、反発をおぼえたが、そのうちこれが可笑しみになった。だれのものでもない歯磨きチューブから、朝ごとに必要量を消費して、口のまわりを白くしながらニヤニヤ笑えた。現にいまでもこうして思い出せば、愉快をおぼえる。あの小さな張り紙だけでも私はなつかしい里だ。一週間のうち、初めの三日は腹を立てていた。徹夜で討議したはてに、最初の答えと同じ結論になったりする。あいにく私は町場育ちで気が短い。が、根は愚鈍につき、ようやく気づいた。目から鼻へ抜けるのが理解ではないのだな。だれのものでもないとは、私有の否定だけではなくて、共有でもないのだな。たとえばの話、地球の皮、太初このかたこの地べたが、ほんらいだれかのものであるはずがない。と思えば胸がせいせいしませんか。その私有を忽ち正当化する理論があるならば、眉に唾をつけておこう。私有を廃して国有にしてみても、しょせん五十歩百歩だったという実験にも八十年はかかるのだものね。人間の命もまた、国家や組織や会社なんかに所有されるものではない。とは、こんにちだいぶ自明の理になってきた」