磯田道史著 『 無私の日本人 』 を読む

 磯田道史さんの文庫本『無私の日本人』を読んだ。
        

 磯田さんの「古文書の中に見つけた世界に伝えたい日本人」という文章が、ネットの「文春オンライン」にアップされている。
 この内容が、本書の「あとがき」としても載っている。
 磯田さんは、『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』を始め、歴史小説を出しているが、作家と言うより日本近世・近代史・日本社会経済史を専門とする歴史学者であり、国際日本文化研究センター准教授である。
 その磯田さんは本書でも、古文書を読み解きながら、それに基づいて取材を重ねて、江戸時代から明治の初期に、市井の人として生きた無名の賢人、穀田屋十三郎、中根東里、大田垣蓮月の3名を描き紹介している。

 一人は「穀田屋十三郎」
 陸奥国仙台藩領の吉岡宿の話。
 吉岡宿は仙台藩の領地内でありながら直轄領ではなかった為に、仙台藩からの宿場町に対しての「伝馬御合力」と言う助成金が給付されず、さらに吉岡宿の人々は、普通の農民のように年貢だけでは済まず、藩が公用で街道を往来するときには「伝馬役」という荷物や人を運ぶための課役が課せられていた。
 吉岡宿の、このような宿場維持の負担増、さらに飢饉などによって疲弊してゆくのに危惧して、知恵者の菅原屋篤平治などと相談。
 その対応策として、賛同者を集め、我が家の存続も危ぶまれるような私財捻出をして、仙台藩に1000両という金を貸し付け、毎年その利子を受け取り、それを宿場のすべての人に配分するという、当時としては奇想天外なことを成し遂げる物語だ。

 二人目は「中根東里」
 江戸時代中期の儒学者の話。
 一切の私欲を捨て、仕官も断り、学問の追究に生涯を費やし、陽明学徒として子弟の教育をした、高潔な人柄で知られる中根東里という儒学者の生い立ちと一生の物語だ。

 三人目は大田垣蓮月
 幕末・明治の歌人であり陶芸家である、絶世の美人だったといわれる尼僧の話。
 歌道を学び、武芸にも長じる女性だが、夫と死別後、仏門に入り尼となる。
 物欲を捨て、私欲を放し、衣食住すべてに淡泊な生活をする。
 生活の糧には、手捏ねの茶器に自詠の歌を彫りつけた「蓮月焼」と称される陶器を作る。
 蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。
 また、人に与えることに喜びを感じ、京都でたびたび起った飢饉には私財をなげうって寄付し、また切り詰めた生活から捻出して鴨川に丸太町橋を架けるなど、無私の心を貫いた尼僧の姿を描いた物語だ。
 ここで僕が興味を持ち、特記しておきたいのは、
 西郷隆盛旧幕府軍追討の旗を上げて東国に向かうとき、蓮月は「あだ味方勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思えば」という歌を送った。これによって西郷が江戸城総攻撃を思い止めたのではないかと言うこと。
 江戸の町が戦禍を免れたのは、勝海舟山岡鉄舟のおかげというよりも、蓮月という一人の尼僧のおかげだったというのを知った。