荻原浩著・文庫『 二千七百の夏と冬 』(上)(下)を読む

 この物語は、縄文から弥生へ移行する2700年前の時代の物語だ。
          
 2700年前の時代を舞台にして、当時の情景が目に浮かぶような描写と、縄文人の自然との関わり、そこから得て生活する智恵の数々などを、些細にわたり描いているあたりは、著者のイマジネーションの凄さだ。
 また、縄文人弥生人との出会いで、どんなドラマが生まれただろうかと推測しながら、縄文人弥生人の使う道具や生活様式や価値観に初めて出会った時の戸惑いや驚きを、著者は数々の学術的文献をもとにしながら、豊かなイマジネーションを駆使して古代時代を描き、読者にあたかも史実を読む感覚を与える、ロマンを含んだ壮大な物語として作品を完成させている。

 物語は、関東のあるダム建設現場から発掘された2体の古人骨に端を発している。
 まだ十代と思われる人骨は縄文人と推測され、伸ばした手の先には、弥生人の少女と思われる人骨。
 2人は顔を向け合い、あたかも手を握り合っていたような埋もれ姿だった。
 2人が生きていた2700年前の時代。
 それは、どんな時代だったのか。どんな生活を営んでいたのか。
 そして、この2つの古人骨の青年と少女に、どんなドラマがあったのか。
 これ以上、内容に触れると、これから読む人の邪魔になるので控えるが、縄文から弥生へと移行する時代の実話のように描かれている。

 そうはいっても、少しだけ、この作品を読みながら僕が感じたことを書くとすれば、
 縄文人の感覚や価値観にもとづいた表現だったら、なんていうのだろうかと、著者が試みているのが面白い。
 「カァー」や「イー」「ミミナガ」と聞いたことがない呼び名の動物や、「鼻曲り」と呼んでいる魚。それが「鹿」や「猪」や「ウサギ」や「鮭」であるというのが読んでいて分かるが、ふっと縄文人はそう呼んでいたのかもしれないという感覚になる。
 また、生活の中での会話でも、縄文人の発想なら、そう表現していたのかもしれないと思わせる言葉を、現在のことばのルビをふって読ませ、古代の世界に読者を引き込む。
 例えば、「夏の雪」と書いて「たわごと」とルビがふってあったり、「鳥の巣の卵」と書いて「たぶん」と読ませたり、「生肉と焼き肝」を「ぜいたく」と読ませたりする。
 挨拶にしても「神の決めた日和」と言って「こんにちは」だし、「一矢で二頭」と言ったら「すごいな」とルビが符ってある。
 本当に、当時はこのような表現だったのかどうかなど分からないが、ユーモアさえ感じる表現で、縄文人の感覚と日常生活を描いているのだ。

 (下)は、いよいよ弥生人との出会いだ。
 縄文人の価値観と弥生人の価値観の違いを描きながら、物語は展開する。
 例えば、縄文人は、弓は獣を射つものであって、人が人を射つために使うことはないので、弓を向けられて驚くし、持っているものを守るという意識、戦という行為やそのための軍隊らしき人がいる事にも驚く。
 そして、弥生人は「コーミー」と呼ばれる「米」の栽培を主にして狩りに行かす、男も女の「コーミー」づくりに忙しく働くことにも驚くのだ。
 そんな中での縄文青年と弥生少女の恋物語。十分に恋愛物語としても感動ある作品として読める展開となっている。
 最後は、「地震え」と読んでいる大地震の発生で、恋の終末を迎え、縄文人の青年と弥生人の少女は、2体の古人骨となって現代に蘇るのだ。