村上春樹は、今年も巷では、ノーベル賞候補として話題になっていたが、やっぱりというか、残念というか、今年も取れなかった。
その話題のすぐ後に、「アンデルセン文学賞」を受賞して、その授賞式でのスピーチ日本語版が新聞に載っていたので読んだ。
そんな時に、出張で新幹線に乗る前に、駅中の書店で平積みされていた新刊文庫『女のいない男たち』が目に留まった。
久々に春樹ワールドに触れてみようかと、その文庫本を買った。
今回のこの短編集『女のいない男たち』は、6つの短編から構成されている。
「ドライブ・マイ・カー」
「イエスタデイ」
「独立器官」
「シェエラザード」
「木野」
「女のいない男たち」
この短編6作品とも、女性に無関係な男たちを主人公にしたものではなくて、主人公はすべて「何らかの理由や事情で女性に去られた男たち、あるいは去られようとしている男たち』の物語だ。
そういう意味では、互いの気持ちの共有を構築できなかった、構築できていたと思っていたが、そんなものはウソだった、という悲しい展開の小説群だ。
6編すべてを、僕は村上春樹が何を言おうとしているのか、理解出来たか、あるいは勝手な解釈ができたかというと、残念ながらそうではない。
正直、何編かは、僕の理解領域を超えた、勝手な解釈も許さない春樹ワールドだった。
しかし、「イエスタデイ」と「独立器官」は、6編の中では、こう言うことなのかなと思えた作品だった。
村上春樹という作家は、世界的に有名な、気になる作家ではあるが、最近の春樹ワールドは、特に難解だとつくづく思う。
そんなことで、一編ずつ、感想を書きたいが、今回はお許しを・・・。
蛇足ではあるが、「アンデルセン文学賞」授賞式でのスピーチでは、村上春樹は次の様な事を言っている。
『僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。
そこで僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。
でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。
読み手とともに、この過程を経験する。そしてこの感覚を彼らと共有する。これが小説家にとって決定的に重要な役割です。』