お薦めの一冊・『博士の愛した数式』

 日曜日、何か読むものはないかと思って、妻の本棚を漁って手にした小川洋子著『博士の愛した数式』という小説。
 実に、心ほのぼのと、読後に余韻が残る物語だった。
 交通事故で脳に損傷を受け、記憶が80分しか持続できない老数学者「博士」と、その博士のお世話をする家政婦の「私」と、私の息子「ルート」の、心触れ合う物語なのだ。
           


 博士の記憶は80分しかもたない。忘れない(思い出す)ために博士の背広には、事細かく生活を維持するためのメモが留めてある。
 そして、いつも数式のことだけを考えている博士。そして博士は、子どもを無条件に愛する純粋な人なのだ。
 高校を卒業以来、家政婦組合に登録して一人息子を育てるシングルマザー「私」は、博士が投げかける数式に少しずつ魅せられ、博士の純真な心に触れながら、家政婦という立場を超えた恋慕にも似た眼差しで、博士を温かくお世話をする。
 「子供を一人にしておいてはいけない」という博士の強い意見を受け入れて、本来ならばしてはいけない派遣先の博士の家に子供を連れて行く。
 博士は、その息子の平らな頭を撫でて「どんな数字でも嫌がらず自分のなかにかくまう、実に寛大な記号の√ 」の形にちなんで「ルート」と名付ける。

 博士にとってはいつも初対面。かろうじて袖口に掛かっているメモで関係性を確認する。
 物語の中には、素数自然数完全数など、様々な数字や記号、数式が登場する。「君の生年月日は?」「君の靴のサイズは?」などと問うたり、いろいろな場面に出てくる数字に対して、その数字が意味する不思議な美しさを、博士は解き明かして語る。
 数学があまり得意でないと自認する僕であっても、その説明に納得し、数字や数式の謎に魅力を感じてしまうのは、著者の巧みな文章の力だろうか。

 博士の中では、今でも阪神タイガーズの江夏豊は現役である。
 その江夏の背番号は、その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しいという、自然数の中でも特別な完全数の「28」(28=1+2+4+7+14)。
 博士は実際に野球を見たことがなくても、データー上の数字で野球を理解している。
 そんな博士を連れて野球観戦をしたり、ルートの誕生日に1985年頃におまけに付いていた江夏の野球カードを探して、博士にプレゼントしたりと、涙ぐましい交流をして、純粋に、深く深く、心と心が結ばれていく。

 そんな博士も、80分という記憶維持の時計が壊れて施設に入るが、その後も3人の交流は続く。
 私とルートの博士訪問が最後になったのは、ルートが22歳になって大学を卒業する前だ。ルートが教員採用試験に合格して、来春から数学の先生になることを博士に報告する。
 博士の弱々しい腕が震えながらルートと抱き合う。

 さすが、全国の書店員が選んだ第一回本屋大賞を受賞した小説である。
 まだ、読んでない人には、お薦めの一冊だ。
 最後に、博士が〝ゼロの発見〟を熱く語るのを記しておく。
 「0を発見した人間は、偉大だとは思わないかね。古代ギリシャの数学者たちは皆、何も無いものを数える必要などないと考えていた。このもっともな理論をひっくり返した人々がいたんだよ。無を数字で表現したんだ。非存在を存在させた。素晴らしいじゃないか。」
 〝無〟に意味と存在を与えたのが〝0〟なのだと言うことを、このように語っている。